2013年10月16日水曜日

ぎゅっとしてみたり しゃんとしたり

大学時代はなぜあんなに馬鹿みたいにブログを更新していたんだろう。まあ、馬鹿みたいっていうか馬鹿だったんですが。

一昨日だったかakiさんと話していたら、大学時代に会心の出来だと思えたレポートは2通ぐらいしかないと言われた。私にはそんな風に思えたレポートなんて自慢ではないが、いや、もう自慢かもしれない、ひとつもない。成績表の話で言えば、優・良・可・不可の優もいくらかはあったが、教授が優しかったか甘かったか何かしら反応したら優をくれるシステムだったかに思えてならない。

「卒論はタイトルしか覚えていない」とakiさん。「タイトルも覚えてないや」と私。ダメ人間すぎる。今の私が高校時代の私にアドバイスするとしたら、「高卒で就職してもいいんじゃない?」ってことだろうか。高校時代もぼんやり考えていたけど、周りになかなかそういう人がいないし。高卒で一旦就職したものの短大に入り直した、 部活の2年先輩の女の人はいたけれど。マイペースなりに自分で決めて行動するというのが、格好良く見えたなぁ。ほんの少しの勇気と行動力なのに、意外と出せないもんです。

…ってこんな反省会をするつもりではなかったんだった。最近ハマっているものについて書こうと思っていたのだ。それは、スポンジ。特に食器洗い用のスポンジを見ると、しばらくそこでウィンドウショッピングしてしまう。

きっかけはマーナのおさかなスポンジを使ったことだった。自分で買うと値段重視で、イ○ンの安いプライベートブランドのスポンジなどを使っていたのだが、すぐにへなへなになるし、食器洗いは苦にしか感じられなかった。でも、おさかなスポンジは可愛いし結構丈夫で、洗い物が大量にあるとかでなければ、むしろ進んで食器洗いしたくなる洗い心地なのである。

今は、やっぱりマーナのおはなスポンジを使用しているが、個人的にはおさかなの方がたくさん洗うには向いていると思う。おはなは握りつぶしてしまいそうで、若干不安を感じてしまう。ちなみに、おはなスポンジは近所のイオンで買った。このイオン、食器洗いのコーナーはほとんどマーナで占められていた。むしろ安いプライベートブランドのがひとつもなくて驚きだった。近所の奥様方のニーズに合わせた結果なのかしら。

変な趣味かと思っていたけれど、ネットで見ているとスポンジ好きな人は一定数いるようだ。主婦にはキクロン、ダスキンも人気みたい。 へたらないというので。店で触った感触しか知らないけど、キクロンの研磨粒子入りの不織布部分は鍋なんかゴシゴシ遠慮なく洗えそうで、ちょっと欲しくなった。メーカーのページで色々探すのも、また楽しい。

というわけで、最近になってようやくホームセンターとか雑貨屋に行くのが楽しい人の気持ちが、少しわかるようになったのでした。

2013年8月6日火曜日

重そうで重くない少し重いテーマ

今日は広島に原爆投下された日というので、子供に戦争をどう伝えればいいか、というテーマをテレビで取り上げていた。

私が通っていた小学校は、特に空襲が酷かった地域にあったわけでもないと思うのだが、やたらと平和教育とやらに熱心だった。毎年夏になると原爆関連の資料・絵画展なんかが開かれて、クラス全員でワラワラと見に行ったものである。2年生のときだっただろうか、原爆で焼けただれた人の絵などが展示されていたのを見て、男子が1人気分が悪くなって退出したのは記憶に残っている。何が描かれていたのかなどは、よく覚えていない。

小学生だった私は、何か惹きつけられるものがあったのか、戦争関係の本を繰り返し読んでいた。『ガラスのうさぎ』とか『ふたりのイーダ』とか…『ヒロシマのうた』というのもあったかも。今大人になった自分から見たら、この執着っぷりは大丈夫か心配するのではないかと思われるぐらい、のめり込んだ時期がある。理由を考察してみるに、戦争が遠い過去の話となってしまった世代の私にとっては、こういった話はファンタジーの1ジャンルぐらいの捉え方だったのかもしれない。その証拠(?)に、今でも「核兵器廃絶を!」「戦争は悲惨だからやってはいけないんだ!」などと強く思ったり主張したりするようにはならなかった。もちろん、平和な世の中であるに越したことはないのだけれど。

話は戻って、テレビでは親子で原爆資料館のようなところに行く、語り部から話を聞く、などという試みが放送されていた。しかし、そういうところで見聞きするものって、悲惨さばかり強調されるのね。罪のない市民が巻き込まれた、みたいな。関係ないけど、この“罪のない”という表現、私は嫌いです。“罪のない”人っていうのは、犯罪者じゃないってこと?逆に言うと、A級戦犯なんかは殺されてよかったってこと?人間というのは、罪はなくても業というのは多かれ少なかれある、と私は考えている。ただ、業があるから殺してもいい、ということにはならないし、罪がないから殺されるはずがない、ということにもならない気がする。言葉の綾に噛み付きすぎかしら。

ともかく、戦争を伝える=太平洋戦争の悲惨さを伝える、ということになってしまっていて、「過激な展示もあり、子供に見せるのは躊躇してしまいます」という意見も出る始末。 小学生ぐらいだと、それが手っ取り早く戦争を伝えられる手段なんだろうか。手っ取り早く伝えることに意味があるのか知らないけれど。何が変と思うかって例えば、津波に気をつけようというときに、水死体の絵だか写真だか見せて終わりにするのか、っていうこと。具体的にどう逃げるか、どこに逃げるかという話をするでしょう。

「戦争は国のお偉方が決めることで、罪のない市民がどうにかできるものじゃない」と言うのなら、平和教育の有効性を自ら否定する矛盾に陥ると思うのだけれど。デモも座り込みも無意味だから止めればいい。目的を忘れて、あるいはそもそも考えずに手段に酔っているだけ。

戦争を経験していないからこそ、客観的に捉えられるものがあるのではないだろうか。経験者に共感しているだけでは、そういう体験もあっていいけれど、前に進まないし。本当に太平洋戦争について考えたいなら、まず明治からの日本の政治・外交について徹底的に学ばないと。その手間を惜しむぐらいなら、何も教えない方がよい。知識・教養の二極化が進むかもしれないけれど、状況は大して変わらないのではないか。

2013年7月12日金曜日

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決して忙しすぎてネットなどしている暇がないわけではない。が、やはり何らかの意見なり感想なりをまとめようとすると、途端に指が動かなくなる。こういうとき、“腰が重い”というのは適当な表現なのだろうか。「いや〜、腰が重くってブログの更新ができないんですよ」って、変な感じ。情報端末を持ち歩くこんな時代にふさわしい表現とは。

割と前になるが、村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読んだ。本当は読むつもりなどなかった。私は素直ではないので、メディアで頻繁に取り上げているものには手を出したくなくなるのだ。みんなミーハーだなぁ、と思っていたら、お義母さんが読みたかったそうで、akiさんが買ってきた。「先に読んでもいいって」と言われ、結果的に私が最初に読んでしまった。傍から見たら、私がミーハーにしか見えないよね。

私は文学の解釈というものが苦手で、小説を読んでも基本的には娯楽として消費しているだけである。文藝春秋6月号で、石原千秋が夏目漱石の『こころ』と村上春樹の『ノルウェイの森』の共通点は何かについて書いていて、その『こころ』の解釈に新鮮な驚きを覚えた。この記事を読んだ直後は、小説の解釈って面白そうだなと思ったが、あまり深入りすると何のため、誰のための解釈なのかという問題になりそうな気がして、結局こういうのは一部の頭のよい人が生活の片手間に知的な遊びとしてやるぐらいがベストではないだろうか、という結論に至る。そして、私の小説を読むスタンスも変わらないまま。

村上春樹の作品でも、「共感できる」「わかる」と言う人は少なくないが、彼の作品に限らずほぼすべての小説について、私は「わかる」と言えない。あそこに書いてあった文の意味がわからない、主人公の気持ちは何でこうなるかなー、など自分の頭脳と感性では把握しきれないことがあると、例えある部分の文章が自分が考えたことと何らかの一致を見たとしても、それで理解したとは言い難い気がしてしまうのである。結果が15であっても、そこに至る式は3+4+8かもしれないし、あるいは私にわかっているのは3+4+△+○ということだけなのかもしれない。

私がやたらと“わかる”を神聖視しているだけで、別にそんなに深い意味はなくていいのかもしれない。少しでも似たようなことを考えたことがあると感じたなら、「わかる」と言ってしまっても問題はないのだろう。そもそもこんな話で嘘をついたところで、誰も迷惑を被らないわけだし。しかし次には、そんな表層的な言葉のやりとりで虚しくないか?、と思ってしまう。まあ、私も物事の本質を考えることは嫌いではないが、本質に迫れているかとは別問題であって、実際に私と話すと虚しい思いを抱く人が大勢だったりして。

“成長する”も自分に対して使うには、抵抗がある。多くの場合、「私、成長したわー」というよりは「成長している気がしない」という文脈で使われるように思うが。前者も皆無ではない。個人的には、神経がまともなら成長なんてそう肯定的に捉えられないものだと考えている。例えば、全然ギターが弾けなかった人がコードを覚えてポロンポロン鳴らせるようになったら、それは成長したと言えるかもしれない。が、それはゼロからの進歩だから大きく感じられるのである。0→1と99→100では感じられる進歩の度合いは違うに決まっている。

最近は何でも前向きに言うのが流行りなのか、「今まで全然そんなこと考えたことなかったんですけど、今回のことで学びました~」と宣う人をよく見る。そういうのを見るたびに、今まで何も考えてなさすぎるだろうと感じることがほとんどだ。今知ってさえいれば(それも怪しいが)、過去知らなかったことは恥でも何でもない、という感覚はちょっと理解し難い。「昔は万引きなんかよくやったもんですけど、今は落ち着いて結婚して子供もいます~」と平気で公表できるメンタリティと大して変わらない気がしてしまう。個人的には。

つまり、成長する=過去を恥じるということなんだろうと思う。だから私にとって、自分が成長したことを明るく報告する機会なんてないのである。あるいは過去を恥じずに言えるときは、何か新しいことに挑戦したときであろう。しかし、「成長した」と言いたいがために何かを始めるもんでもないと思う。それでも何でも成長したい人は、何のための成長なのかをよく考えた方がいいと思う。そもそも成長はどんな場面でも例外なく善なのか。

ここ数日間暑いせいか、昨日財布にお金が入っていなかったからATMでおろさなきゃと言っていたakiさんは、今日財布ごと忘れて行っちゃうし、coopの宅配の人は1階下の家の前に荷物を置いて行っちゃうし。私はこんな記事書いてるし。ま、それは毎度のことだけど。札幌でそうなんだから、連日39℃超えしている地域とかどうなっちゃうんでしょうか。

2013年3月12日火曜日

ひとのきもち

1月にアルジェリア人質事件が起きた。犯行グループが出した声明の中に、目的を達成するためなら死ぬのは厭わないというような文言が入っていた、という報道を聞いてピンと来なかった。そう言えば交渉に勝つと思っているだけで、実際攻撃されるなんて思っていないのではないか、と考えたからである。しかし、akiさんに言わせると、死ぬ覚悟はできているのではないか、という考えであった。ここまで、アルジェリア政府の救出作戦開始前の話。その結末は…

他人の気持ちをわかる、ということは困難である。相手の立場に立ってみることはできても、相手と同じ価値観で考えることができなければ、相手の気持ちを理解することはできない。あるいは価値観はそれほど違わなかったとしても、その状況の切迫感や緊張感を相手と同じように感じられなければ、やはり相手の気持ちを理解することはできない。パジャマ姿で「いやー、恐いねー」とテレビを見ているだけの私が、自分たちの正義を信じて実力行使に出ている人たちの思考や感情を汲むことは、ほとんど不可能だったのである。

一般人の声として、「テロなんて卑劣な手段は絶対に許されません!」というのがあるが、“勝てば官軍、負ければ賊軍”とはよく表現されたフレーズである。偉人の言葉の中には、彼(女)が言ったから取り上げられただけではないかと思えるものもあるが、このフレーズは誰が言ったとしても真実だと思える。

数年前のことだが、「お前は心を開かない」と怒られたことがある。今思えば、「それは貴方と私の間にそれだけの信頼関係がないからではないですか」と反論すればよかったとも思うが、当時馬鹿正直だった私は、心を開く=思ったことを言う、と解釈した。そして、思いつくままに「そんなにこきおろして罵ってばかりいる相手と、一緒にいる意味がわからない。別れればいいのに」と言ったら、「(その相手にも)いいところがあるからくぁwせdrftgyふじこlp」と言っていた。

どうやら、同じ言葉でも人によって定義が違うようだ。彼女にとって、心を開く=彼女の聞きたい言葉(感謝、賛辞など)を言う、ということだったらしい。その場限りの人間関係であれば、適当に多少はお世辞をいうなり悪いことは言わないなり、といった対応をしてもいいが…一方的に気を遣う関係性のまま、さらに相手に優越感に浸らせるようなことをしたくはない、と思ってしまったのは、私が意地っ張りなんだろうか。

後日、「あなたのせいで別れることになりました」とメールが来たが無視していたら、さらにそのあと尋ねてもいないのに「別れたくないと言われたので、別れられない」というメールが来ていた。何て自分本位で他責的な人間なんだろうと呆れていたが、案外少なくないのだろうか。そう思ったのは、大家族の密着ドキュメンタリーの番組を見たときだった。

その番組では、なよなよしたお父さんとしっかりしたお母さんという構図を強調していたが、どうもしっかりしたお母さんという表現には疑問符が。自らも夫の仕事を手伝い、忙しい中食事を作り、というのは大変だろうし凄いとは思う。が、要領よく自分の仕事をこなしていることが、夫に対してどういう暴言を吐いてもいい根拠にはならない。夫に直してもらいたいところは「全部!」と言っていたのが、非常に印象的だった。子供を作ったのも結婚したのも、自分の意思ではないの?天に唾していることに無自覚なのが恐ろしい。

まあ、番組は面白くするためにあえてそういう演出をしているのかもしれないけれど、それを見て共感している人たちが少なからずいるということだろうか。同じ民族でも、分かり合えるのはほんの一部。

2013年1月12日土曜日

CROSS-BORDER

「まあ、書くのに5日はかかりますよ。何せエアメールなのでね」
「出してからは時間かかるけど、書くのは関係ないでしょ」
という会話からはや5日以上経過…いつからこんなに筆不精になったのか。

スーパーに買物に行ったとき、某メーカーのバターの内容量が200gから150gに減っていた。その商品のポップには、より使いやすくなりました、というような文句が書いてあった。価格はもちろん、200gのときよりは安いけれど、体の良い実質値上げだろう(と思う)。それとも、最近の消費者は新鮮さにこだわっているのか…。

その帰り道、ある建物の前を通ったら、駐車場内でのペットの散歩禁止の看板があった。それだけなら何も思わなかったが、看板の左側に『抱えても不可』とまで書いてあった。管理人が動物アレルギーなのだろうか。それとも、糞の始末をしない飼い主がいるという線が妥当かしら。いずれにしても散歩が駄目なら抱えていけばいいじゃない、という発想。何というかスゴい。

明けましておめでとうございます。

いつだったか特売日に買ったソーセージ。そろそろ賞味期限が切れそうだったので、何か料理しようとレシピを検索。最近はメーカーも親切で、この商品はこんな料理で使える、とレシピをサイトに載せていることが多い。そのソーセージを使ったレシピも見つかったが、1件しかなかった上に、トマトソースのパスタにソーセージを乗せただけだった。結局、ポトフに。素材が美味しければ、調理方法なんて何でもいいってことかも。

美容室に行ったとき、「顔で気になるところありますか?…例えば、顔が丸いところ、みたいな」と訊かれて、歯並びかなぁ、と思ったけれど、コンプレックスを何でもかんでも言えばいいというもんでもないかと、「あ、ないです」と自信満々に答えた。

その美容師の人と、PlayStation3のJOYSOUND DIVE(カラオケ)に全国採点の機能が追加されたが、トップの人たちのスコアが変態的に高いという話をしていたとき。
「それって顔とか見えるんですか?」
「いや、顔は見えないですねー」
「顔が見えたら、アイドルになれるかもしれないのにねー」
そんな歯の浮くようなことを言われても…は、は、は。

子供の頃、大人たちとテレビを見るとチャンネルは大体NHKだった。何が面白いのかさっぱりわからなかったが、最近は専らNHKばかり見ている。特に変わったのは、動物の生態やら人々の生活・暮らしというものに興味が出てきたことだろうか。今日も知床のヒグマの親子の映像を見ていた。どうして、動物の子供っていうのはああ可愛いんだろう。

NHK、クローズアップ現代の『急増 卵子提供』。自分の卵子では妊娠できない人が、タイなどで第三者から卵子提供を受ける、ということが増加しているらしい。卵子提供者は同じ日本人で、数十個単位の卵子を採取されるのだが、その報酬は60万円。少なすぎると思ったが、「お金儲けのための方はお断りしています」とは仲介業者の言。お 前 が 言 う な。

明日はTOEIC。最低スコアを叩き出す予定です。