2013年8月6日火曜日

重そうで重くない少し重いテーマ

今日は広島に原爆投下された日というので、子供に戦争をどう伝えればいいか、というテーマをテレビで取り上げていた。

私が通っていた小学校は、特に空襲が酷かった地域にあったわけでもないと思うのだが、やたらと平和教育とやらに熱心だった。毎年夏になると原爆関連の資料・絵画展なんかが開かれて、クラス全員でワラワラと見に行ったものである。2年生のときだっただろうか、原爆で焼けただれた人の絵などが展示されていたのを見て、男子が1人気分が悪くなって退出したのは記憶に残っている。何が描かれていたのかなどは、よく覚えていない。

小学生だった私は、何か惹きつけられるものがあったのか、戦争関係の本を繰り返し読んでいた。『ガラスのうさぎ』とか『ふたりのイーダ』とか…『ヒロシマのうた』というのもあったかも。今大人になった自分から見たら、この執着っぷりは大丈夫か心配するのではないかと思われるぐらい、のめり込んだ時期がある。理由を考察してみるに、戦争が遠い過去の話となってしまった世代の私にとっては、こういった話はファンタジーの1ジャンルぐらいの捉え方だったのかもしれない。その証拠(?)に、今でも「核兵器廃絶を!」「戦争は悲惨だからやってはいけないんだ!」などと強く思ったり主張したりするようにはならなかった。もちろん、平和な世の中であるに越したことはないのだけれど。

話は戻って、テレビでは親子で原爆資料館のようなところに行く、語り部から話を聞く、などという試みが放送されていた。しかし、そういうところで見聞きするものって、悲惨さばかり強調されるのね。罪のない市民が巻き込まれた、みたいな。関係ないけど、この“罪のない”という表現、私は嫌いです。“罪のない”人っていうのは、犯罪者じゃないってこと?逆に言うと、A級戦犯なんかは殺されてよかったってこと?人間というのは、罪はなくても業というのは多かれ少なかれある、と私は考えている。ただ、業があるから殺してもいい、ということにはならないし、罪がないから殺されるはずがない、ということにもならない気がする。言葉の綾に噛み付きすぎかしら。

ともかく、戦争を伝える=太平洋戦争の悲惨さを伝える、ということになってしまっていて、「過激な展示もあり、子供に見せるのは躊躇してしまいます」という意見も出る始末。 小学生ぐらいだと、それが手っ取り早く戦争を伝えられる手段なんだろうか。手っ取り早く伝えることに意味があるのか知らないけれど。何が変と思うかって例えば、津波に気をつけようというときに、水死体の絵だか写真だか見せて終わりにするのか、っていうこと。具体的にどう逃げるか、どこに逃げるかという話をするでしょう。

「戦争は国のお偉方が決めることで、罪のない市民がどうにかできるものじゃない」と言うのなら、平和教育の有効性を自ら否定する矛盾に陥ると思うのだけれど。デモも座り込みも無意味だから止めればいい。目的を忘れて、あるいはそもそも考えずに手段に酔っているだけ。

戦争を経験していないからこそ、客観的に捉えられるものがあるのではないだろうか。経験者に共感しているだけでは、そういう体験もあっていいけれど、前に進まないし。本当に太平洋戦争について考えたいなら、まず明治からの日本の政治・外交について徹底的に学ばないと。その手間を惜しむぐらいなら、何も教えない方がよい。知識・教養の二極化が進むかもしれないけれど、状況は大して変わらないのではないか。