夫が、YouTubeの画面を見せて「ちょっと見てほしい動画があるんだけど」と言うので、魚を捌く動画かなと思っていたら、音楽の動画で意外と見入ってしまった。それがハードオフ社員、永田氏の動画であった。
基本的に私はプロ以外がアップした動画を見ない。素人はレベル差が激しく、あまりよくないものを再生してしまったときのガッカリ感を味わいたくないからだ。再生するつもりがないのに誤って再生したときは履歴から削除している。潔癖症。
しかし、永田氏の動画はワクワク感があって、次から次に再生してしまった。履歴が汚れた(酷い言いよう)という気もしなかった。動画自体が作り込まれているのもさることながら、本人の演奏・歌唱のクオリティが高く感じたのだ。
歳をとってしまったからだろうか、イマドキの歌にはついていけないし、ついていこうという意欲も湧かない。私の好きな歌を、高い歌唱力で歌ってほしい。高い歌唱力、という定義も人によるだろうから、私好みの高い歌唱力、という我儘ぶりである。
最近、デーモン閣下のGIRLS' ROCK Bestを聴いている。元々YouTubeで閣下の歌い方は好きだったのだが、その人が私の好きな歌をたくさん歌っているアルバムである。買うしかなかった。赤いスイートピーはあまり好きだと思ったことはなかったが、閣下versionは結構好きだ。アイドル松田聖子の歌だと捉えると、若干遊んでないか?と思わないでもないが、ひとつの作品としてまとまりがあって違和感はまるでない。
カバーとかパロディとか、やはり実力がないと出来ないもんだなと思う。いくらカバーだ、パロディだと本人が主張しても、実力がないと自己満足、下手したら失敗に見えかねない。
運転技術のある人が年季の入った車に乗っていると、「車好きなんだね」と評価されるが、ない人が同じことをやると、「車買い替えればいいのに」と言われかねないのと似ている…?
2020年6月27日土曜日
2020年5月7日木曜日
むかわのししゃも寿司が食べたい
昨日の朝刊で、大学生の声を取り上げた記事があった。コロナで生活にどんな影響が出ているかというテーマで、アルバイトができなくなって生活が厳しいとか、イベントの中止でやることがなくなってしまったとか、色々あったのだが、その中に1年生になったばかりで友達もいないので、ゲームとYouTubeの日々というのがあった…
…それでいいのか、大学生!!
まあ、書籍を買うとなるとお金もかかるし、図書館が開いていないから借りられもしないし、どうしてよいのやら、というのはわからないではないけれども。ただ、授業が再開したとして、こういうタイプの人が目の色を変えて勉学に励むイメージは…持てないんだよなぁ。
YouTubeも最近は、教育系動画が結構あるみたいだし。きっと、それで勉強しているんだ!そういうことにしよう!!(何のために)
しかし、図書館での本の貸し借りだけでも何とかならないかなぁ。閉鎖期間が数か月にもなってくると、さすがに辛い。電子図書館もあるが、バリエーションに乏しいし、じっくり読みたい本は紙のが読みやすい。おばちゃんには。
さて、そんなおばちゃんは自粛期間中何をしているのかって、YouTubeでサンドウィッチマンとかラバーガールのコントを見てるときもあるし、札幌商工会議所の緊急在庫処分SOSのページを見て何を買おうか物色しているときもある。ゲームやYouTube三昧なのと大して変わらんやん、っていう。
北海道の食品関係の企業については、結構心配している。気になったサイトを覗いて『在庫なし』『販売終了』のような表示が出ているのを確認すると、ホッとする。我が家でも少しは買っているけど。お金と冷凍庫のスペースの問題で、なかなかホイホイとは買えない。
普段いかに色々な前提ありきで行動しているか、ということを否応なく突きつけられたこの度の騒動。からの新しい生活様式。ライフスタイルじゃなくて、生活様式っていうのは、やっぱり大きな変化を伴うことを強調したいのか。ライフスタイルだと、お洒落な生活というイメージになるけど、生活様式って歴史関係の文章でしか見ないような。意味するところは本来同じなんだろうが。それか、クラスターとか横文字じゃわからん、という批判に合わせたのかな。
…それでいいのか、大学生!!
まあ、書籍を買うとなるとお金もかかるし、図書館が開いていないから借りられもしないし、どうしてよいのやら、というのはわからないではないけれども。ただ、授業が再開したとして、こういうタイプの人が目の色を変えて勉学に励むイメージは…持てないんだよなぁ。
YouTubeも最近は、教育系動画が結構あるみたいだし。きっと、それで勉強しているんだ!そういうことにしよう!!(何のために)
しかし、図書館での本の貸し借りだけでも何とかならないかなぁ。閉鎖期間が数か月にもなってくると、さすがに辛い。電子図書館もあるが、バリエーションに乏しいし、じっくり読みたい本は紙のが読みやすい。おばちゃんには。
さて、そんなおばちゃんは自粛期間中何をしているのかって、YouTubeでサンドウィッチマンとかラバーガールのコントを見てるときもあるし、札幌商工会議所の緊急在庫処分SOSのページを見て何を買おうか物色しているときもある。ゲームやYouTube三昧なのと大して変わらんやん、っていう。
北海道の食品関係の企業については、結構心配している。気になったサイトを覗いて『在庫なし』『販売終了』のような表示が出ているのを確認すると、ホッとする。我が家でも少しは買っているけど。お金と冷凍庫のスペースの問題で、なかなかホイホイとは買えない。
普段いかに色々な前提ありきで行動しているか、ということを否応なく突きつけられたこの度の騒動。からの新しい生活様式。ライフスタイルじゃなくて、生活様式っていうのは、やっぱり大きな変化を伴うことを強調したいのか。ライフスタイルだと、お洒落な生活というイメージになるけど、生活様式って歴史関係の文章でしか見ないような。意味するところは本来同じなんだろうが。それか、クラスターとか横文字じゃわからん、という批判に合わせたのかな。
2020年5月4日月曜日
昨日はお好み焼きを焼いた
我が家では、ローカルな情報が欲しいということで、道内シェアの大半を占める新聞を購読している。全国紙に比べると、やはり道内の情報が充実していて、そこはとても評価している。
が。
が。
が。
ガガガガガガガ。
政治について取り上げたコラムなどは、読むに堪えないことがよくある。先日、道知事について書かれていた概要。
「赤じゅうたんを踏む」は国会議員になることを意味する
↓
鈴木知事は次の国政選挙で『赤じゅうたん』ではないか、と自民党関係者
↓
国に先駆けて行った緊急事態宣言で巷では評価が高いらしいが、いかがなものか
↓
今は国の対応待ちばかり
↓
先の道議会での知事答弁は『赤じゅうたん』の水準に達している
このライターは、自分では皮肉も交えてうまいこと書いたつもりなんだろうな、と感じた。端的に言えば、鈴木知事は能力もないのに国会見据えて馬鹿じゃねーの、ということなんだろう。が、本人は一言もそんなことは言っていないし、関係者の発言も推測に過ぎない。
また、宣言が感染抑止になったとは言えない、と独自の緊急事態宣言を疑問視しながら、今は宣言を出した勢いは消えつつある、とまとめているのだが、ここが一番わからない。独自に動いても、国の対応を待っても駄目ならどうしたらよいのか。独自に動く人間は、独自に動き続けなければならない、ということだろうか。ライター(社)の見解はどこで明らかになるのだろう。
自分(会社)の意に沿わないことに、それっぽい根拠を並べて反論する(ぽい、だけなので論理的には破綻している)、というのは、文章を生業とする人間が一番やってはいけないと思う。文章量が短くて盛り込めないと言うのなら、そのテーマは止めて別の文章を書くのがよい。中途半端な文章はメモ書きと同じで、購読料まで払って読むようなものではない、と個人的には考える。
好意的に解釈すれば、知事にはもっと長い間北海道にいてもらいたいが、そう書くのも恥ずかしいのかプライドが許さないだかで、あんな内容になったのかなぁ、とも思う。小学生男子みたいなメンタリティだけど。
今日は蟹を食べるんだ♪
が。
が。
が。
ガガガガガガガ。
政治について取り上げたコラムなどは、読むに堪えないことがよくある。先日、道知事について書かれていた概要。
「赤じゅうたんを踏む」は国会議員になることを意味する
↓
鈴木知事は次の国政選挙で『赤じゅうたん』ではないか、と自民党関係者
↓
国に先駆けて行った緊急事態宣言で巷では評価が高いらしいが、いかがなものか
↓
今は国の対応待ちばかり
↓
先の道議会での知事答弁は『赤じゅうたん』の水準に達している
このライターは、自分では皮肉も交えてうまいこと書いたつもりなんだろうな、と感じた。端的に言えば、鈴木知事は能力もないのに国会見据えて馬鹿じゃねーの、ということなんだろう。が、本人は一言もそんなことは言っていないし、関係者の発言も推測に過ぎない。
また、宣言が感染抑止になったとは言えない、と独自の緊急事態宣言を疑問視しながら、今は宣言を出した勢いは消えつつある、とまとめているのだが、ここが一番わからない。独自に動いても、国の対応を待っても駄目ならどうしたらよいのか。独自に動く人間は、独自に動き続けなければならない、ということだろうか。ライター(社)の見解はどこで明らかになるのだろう。
自分(会社)の意に沿わないことに、それっぽい根拠を並べて反論する(ぽい、だけなので論理的には破綻している)、というのは、文章を生業とする人間が一番やってはいけないと思う。文章量が短くて盛り込めないと言うのなら、そのテーマは止めて別の文章を書くのがよい。中途半端な文章はメモ書きと同じで、購読料まで払って読むようなものではない、と個人的には考える。
好意的に解釈すれば、知事にはもっと長い間北海道にいてもらいたいが、そう書くのも恥ずかしいのかプライドが許さないだかで、あんな内容になったのかなぁ、とも思う。小学生男子みたいなメンタリティだけど。
今日は蟹を食べるんだ♪
2020年5月2日土曜日
夕飯は肉を焼こう
月日は流れ、子供の頃には想像もしなかった状況になっていた…歴史や小説ならすんなり読めるのに、現実の方が雲をつかむような感じ。
気づけば、私もアラフォーと言われる年代に差し掛かり、若いときほど思ったままを述べることが躊躇われるようになった。久々にブログに書き連ねていたものの、ここに自分の精神年齢が晒されることになるのかと思うと、ちょっと怖い。閲覧人数が少ないからいいことにしようとしたが、割と近しい人しか見てないのだから寧ろ不安だ。
今更だが、文章を書くというのは難しい。感情に任せて書くと、支離滅裂だったり、あとから見返して非常に恥ずかしく思えてきたりする。若い頃は勢いがあってよろしいと大目に見てもらえるような気もするが…ユーモアを交えつつ、言いたいことをはっきり伝えるというのはなかなか高度な技術が必要だ。これを目指そうとしてそもそも論理も破綻しているパターンが、新聞のコラムなんかでもある。結論ありきで文章を構成しようとするから…
9月入学・新学期が取り沙汰されている。大阪の府知事なんかが騒いでいたようだ。一般人でも「これを機に」と賛成している人も一定数いるようだが、この混乱に乗じて、ということか。テロリストかな?
9月入学・新学期にすることのメリットが、留学がどうのとか受験がどうのとかで、私にはピンとこない。それでも、絶対反対というわけではなく、既存の枠組みで調整してやれることも多く、半年足らずで急ピッチで進める理由が特にないと思うのだ。目くらましにグローバルスタンダードなどと横文字を並べる人もいるが、グローバルって言いながら念頭にあるのは、欧米とか中国なんでないの?はっきり言えばいいのに。(エジプトも9月らしい)
ちなみに、自治体によってはオンライン授業が始まっているところもあるらしく、こちらの方が先進的である。自治体としてイケてないことを誤魔化して、話題をすり替えているのかも、という疑念も湧いてくる。
ただ、現状を何か変えてくれそうな何か、をまともな根拠もなく有難がる人が少なくないことにも驚きだ。こういう人らは、大して先を見通しもせず、誰かに何かをやってもらうという自覚もなく、やれやれと騒いで、いざやって失敗したら、政府が自治体がと言って誰かのせいにして騒ぐのだろう。学生まではともかく、社会人になってもこんな感じでいつでも消費者目線の人達というのは、不思議な存在である。本人の想像力の欠如で片づけていいのだろうか…しかし、ある一定以上の年齢になると、指摘されてどうにかなるものでもないだろうし…
とりあえず、倉岡のミルフィーユが美味しかったのは現実でよかった。
気づけば、私もアラフォーと言われる年代に差し掛かり、若いときほど思ったままを述べることが躊躇われるようになった。久々にブログに書き連ねていたものの、ここに自分の精神年齢が晒されることになるのかと思うと、ちょっと怖い。閲覧人数が少ないからいいことにしようとしたが、割と近しい人しか見てないのだから寧ろ不安だ。
今更だが、文章を書くというのは難しい。感情に任せて書くと、支離滅裂だったり、あとから見返して非常に恥ずかしく思えてきたりする。若い頃は勢いがあってよろしいと大目に見てもらえるような気もするが…ユーモアを交えつつ、言いたいことをはっきり伝えるというのはなかなか高度な技術が必要だ。これを目指そうとしてそもそも論理も破綻しているパターンが、新聞のコラムなんかでもある。結論ありきで文章を構成しようとするから…
9月入学・新学期が取り沙汰されている。大阪の府知事なんかが騒いでいたようだ。一般人でも「これを機に」と賛成している人も一定数いるようだが、この混乱に乗じて、ということか。テロリストかな?
9月入学・新学期にすることのメリットが、留学がどうのとか受験がどうのとかで、私にはピンとこない。それでも、絶対反対というわけではなく、既存の枠組みで調整してやれることも多く、半年足らずで急ピッチで進める理由が特にないと思うのだ。目くらましにグローバルスタンダードなどと横文字を並べる人もいるが、グローバルって言いながら念頭にあるのは、欧米とか中国なんでないの?はっきり言えばいいのに。(エジプトも9月らしい)
ちなみに、自治体によってはオンライン授業が始まっているところもあるらしく、こちらの方が先進的である。自治体としてイケてないことを誤魔化して、話題をすり替えているのかも、という疑念も湧いてくる。
ただ、現状を何か変えてくれそうな何か、をまともな根拠もなく有難がる人が少なくないことにも驚きだ。こういう人らは、大して先を見通しもせず、誰かに何かをやってもらうという自覚もなく、やれやれと騒いで、いざやって失敗したら、政府が自治体がと言って誰かのせいにして騒ぐのだろう。学生まではともかく、社会人になってもこんな感じでいつでも消費者目線の人達というのは、不思議な存在である。本人の想像力の欠如で片づけていいのだろうか…しかし、ある一定以上の年齢になると、指摘されてどうにかなるものでもないだろうし…
とりあえず、倉岡のミルフィーユが美味しかったのは現実でよかった。
2015年10月19日月曜日
あゝ無精
段々、冬が近づいてきた。この間まで窓を開けて扇風機を回して、「夜になっても全然温度下がらないなぁ」と思いながら、蒸し蒸しした部屋で寝転んでいたのに。最近は明け方にストーブがついているときもある。お風呂に入って浴室から出ると、空気が冷たい。
北海道で暮らしてから、レギンスが欠かせなくなった。タイツというものもあるけれど、私はレギンスが好きだ。靴下を気軽に着脱できないのは、ちょっとストレスなのである。その理由はよくわからない。足呼吸の度合いが人より高いのかもしれない。
もうすぐ漢検の受験日である。問題集は一通りやったが、復習がまだ途中である。一通りやった後、昨年度の過去問を解いてみたが8割は何とか超えられた。本当はもっと復習に時間を割きたかったが、まあ仕方ない。本番は勢い余って変な間違いしないといいのだけれど。キガをともにする、っていうのを見て、「お、私、飢餓って書ける!」みたいな。飢饉かな?あと、ヒョウタン相容れず、も「瓢箪!瓢箪!」とノリノリで書いてたし。
今日も皮剥き器で自分の指の皮を剥いてしまった。包丁で切っちゃった、というのはデキる人っぽいが、皮剥き器で剥いちゃった、というのはズボラな上にドジな人っぽい。ちなみに、絆創膏のことを北海道では“サビオ”と呼んでいる。私が小さい頃から馴染み深いのは“バンドエイド”。今では“サビオ”と呼ぶのにもまったく抵抗がない。親指の付け根にサビオを貼った。ほら、口もあまり動かさなくて済むし。やっぱりズボラか。
ブロッコリーの茎も葉も食べられる、というので食べるようにしている。解体が面倒だが、味は悪くない。とにかく処理したいだけのときは、先に茹でた後、マヨネーズなどと和えてサラダっぽくしたりチーズ焼きにしたり。市販のパスタソースを使うときに加えると、少し味の濃さが緩和される。少し手間をかけられるときは、ハンドブレンダーを使ってポタージュにしてみることも。
近況の羅列…。
北海道で暮らしてから、レギンスが欠かせなくなった。タイツというものもあるけれど、私はレギンスが好きだ。靴下を気軽に着脱できないのは、ちょっとストレスなのである。その理由はよくわからない。足呼吸の度合いが人より高いのかもしれない。
もうすぐ漢検の受験日である。問題集は一通りやったが、復習がまだ途中である。一通りやった後、昨年度の過去問を解いてみたが8割は何とか超えられた。本当はもっと復習に時間を割きたかったが、まあ仕方ない。本番は勢い余って変な間違いしないといいのだけれど。キガをともにする、っていうのを見て、「お、私、飢餓って書ける!」みたいな。飢饉かな?あと、ヒョウタン相容れず、も「瓢箪!瓢箪!」とノリノリで書いてたし。
今日も皮剥き器で自分の指の皮を剥いてしまった。包丁で切っちゃった、というのはデキる人っぽいが、皮剥き器で剥いちゃった、というのはズボラな上にドジな人っぽい。ちなみに、絆創膏のことを北海道では“サビオ”と呼んでいる。私が小さい頃から馴染み深いのは“バンドエイド”。今では“サビオ”と呼ぶのにもまったく抵抗がない。親指の付け根にサビオを貼った。ほら、口もあまり動かさなくて済むし。やっぱりズボラか。
ブロッコリーの茎も葉も食べられる、というので食べるようにしている。解体が面倒だが、味は悪くない。とにかく処理したいだけのときは、先に茹でた後、マヨネーズなどと和えてサラダっぽくしたりチーズ焼きにしたり。市販のパスタソースを使うときに加えると、少し味の濃さが緩和される。少し手間をかけられるときは、ハンドブレンダーを使ってポタージュにしてみることも。
近況の羅列…。
2015年1月9日金曜日
入眠妨害儀式
もう1年の1/60が終わってしまったかと思えば、1/52も過ぎてしまった。そうこうしているうちに1/26が経過しようとしている。分母が劇的に減ると何だかとてつもない時間が流れているように見えるという数字のマジック…か?
最近寝つきの悪い日が増えた。つい2、3日前も全然眠れず、「ああ、もう4時かぁ…」などとボヤーッと時計を見たものである。でも、案外元気で昼寝も多少ウトウトしたぐらいで、特にその日の活動に支障はなかったので、単に疲れていなかったのかもしれない。それともその日はひたすら妙なハイテンション状態にあった…?
漢字を書いていると脳が興奮してくるようで、これが入眠にはよろしくない気もする。しかし、一番落ち着いてできる時間が夜なんだよねぇ。と言いつつ、やらない日が続くときもありますが。
“戚む”は“いたむ”、“戚える”は“うれえる”と読むのを、ついこの間知った。この字に関しては“親戚”・“縁戚”ぐらいしか熟語を知らなかったので、「近い」みたいな意味があるんだろうとスルーしていた。我が母校の卒業生なら読めて当然なものだろうか。
“憾む”は“うらむ”と読むが、文脈によっては「残念、未練」のような意味らしい。小学生ぐらいのとき、『知ってるつもり?!』というテレビ番組(多分)で滝廉太郎が取り上げられた。その終わりの方で、亡くなる前に『憾』という曲を残したと聞いたとき、「怨恨」の方を想像して怖くなったが、当時の恐怖は全くもって見当違いだったのである。
ブログ書くのも入眠にはよろしくないだろうなぁ…⊂ミ⊃^ω^ )⊃ アウアウ!!
最近寝つきの悪い日が増えた。つい2、3日前も全然眠れず、「ああ、もう4時かぁ…」などとボヤーッと時計を見たものである。でも、案外元気で昼寝も多少ウトウトしたぐらいで、特にその日の活動に支障はなかったので、単に疲れていなかったのかもしれない。それともその日はひたすら妙なハイテンション状態にあった…?
漢字を書いていると脳が興奮してくるようで、これが入眠にはよろしくない気もする。しかし、一番落ち着いてできる時間が夜なんだよねぇ。と言いつつ、やらない日が続くときもありますが。
“戚む”は“いたむ”、“戚える”は“うれえる”と読むのを、ついこの間知った。この字に関しては“親戚”・“縁戚”ぐらいしか熟語を知らなかったので、「近い」みたいな意味があるんだろうとスルーしていた。我が母校の卒業生なら読めて当然なものだろうか。
“憾む”は“うらむ”と読むが、文脈によっては「残念、未練」のような意味らしい。小学生ぐらいのとき、『知ってるつもり?!』というテレビ番組(多分)で滝廉太郎が取り上げられた。その終わりの方で、亡くなる前に『憾』という曲を残したと聞いたとき、「怨恨」の方を想像して怖くなったが、当時の恐怖は全くもって見当違いだったのである。
ブログ書くのも入眠にはよろしくないだろうなぁ…⊂ミ⊃^ω^ )⊃ アウアウ!!
2014年12月30日火曜日
キレイキレイ
12月に入って雪が随分積もったのだが、今日一気に解けてしまった。そんな夢を見た。午前中に異常気象をテーマにしたNHKスペシャルの録画を見ていたせいかもしれない。窓から見える景色はやっぱり真っ白だったので、残念なようでホッとした気分でもあった。
さて、我が家ではまたあの議論が再燃。あの議論というのは、例えば頬にご飯粒がくっついている相手に何と教えるかという話。akiさんは相手の右頬にくっついていれば、自分の右頬を指して教えるということで、それが世の中の多数派だと言う。私もそう思う。が、私は左頬を指してしまう方である。自分が相手の鏡像になるというか。そうすると、大抵相手は逆側を確かめるのである。二度手間だなぁと思いつつ、止められない。止まらない。かっぱえびせん。
しかし少ないとは言え、世の中には鏡像派もいるのではないだろうか。私が自分のやり方を変えないのは、自分が身をもって示すことで仲間を探したいのかもしれない(どれだけ孤独なんだ)。鏡像同盟、メンバー募集中。
どんな人にも一発でわかってもらうには、どうしたらよいか。 いっそ相手の方に手を伸ばして「ついてるよ」と言えばいいのではないか。すると、akiさんは男がその方法をとると、セクハラにとられかねないと言う。確かに。「じゃあ、鏡を持って『ついてますよ!』って言うとか」「鏡があればね^^;」…まあ、こっそり教えてほしい人もいるしなぁ…
みんな、お口の周りは念入りに綺麗にしておこうね☆
さて、我が家ではまたあの議論が再燃。あの議論というのは、例えば頬にご飯粒がくっついている相手に何と教えるかという話。akiさんは相手の右頬にくっついていれば、自分の右頬を指して教えるということで、それが世の中の多数派だと言う。私もそう思う。が、私は左頬を指してしまう方である。自分が相手の鏡像になるというか。そうすると、大抵相手は逆側を確かめるのである。二度手間だなぁと思いつつ、止められない。止まらない。かっぱえびせん。
しかし少ないとは言え、世の中には鏡像派もいるのではないだろうか。私が自分のやり方を変えないのは、自分が身をもって示すことで仲間を探したいのかもしれない(どれだけ孤独なんだ)。鏡像同盟、メンバー募集中。
どんな人にも一発でわかってもらうには、どうしたらよいか。 いっそ相手の方に手を伸ばして「ついてるよ」と言えばいいのではないか。すると、akiさんは男がその方法をとると、セクハラにとられかねないと言う。確かに。「じゃあ、鏡を持って『ついてますよ!』って言うとか」「鏡があればね^^;」…まあ、こっそり教えてほしい人もいるしなぁ…
みんな、お口の周りは念入りに綺麗にしておこうね☆
2014年12月28日日曜日
努力ロンダリング
昨日、akiさんに鱈を買ってきてもらおうと思った。その他買いたいものを色々並べていたら、忘れそうだからメモすることになった。卵とか蒸しパンとか言っているうちに、鱈を含めるのを忘れていた。akiさんが帰ってきて、しばらくしてから冷蔵庫の中を見てみるとやはり鱈がない。「ごめん、鱈って言い忘れてたよね」と言うと、「買ってきたよ。チルド室の中に入れといた」とのこと。チルド室って何…ああ、この引き出しのことか…
我が家の冷蔵庫にチルド室があるということに、昨日初めて気付いた。個人的に、昨日まであのスペースは特別なものを入れておくところだと思っていた。特別なものって何かって言われると、そんな特別なものは何も食べていないけれども、強いて挙げればベーコンとかピザ用のチーズとか…割と使いやすい食品?
漢検の準1級を受けてみようと思い立った。と言いつつ、なかなか勉強は捗らないが…とりあえず去年の過去問は3回分解いてみた。正解率は40%前後をウロウロ。ちなみに、合格点は80%以上(難易度関係なし)。自分がそのスコアに到達する姿が想像できない。
世の中には四字熟語があんなに溢れているのですね。ほとんど知らないものばかりだし、知っているのも漢字は書けない。四字熟語どころか、単なる読みの問題ですら結構わからない。そんな準1級ですが、1級と準1級の差に比べれば、準1級と2級の差なんて屁みたいなものらしいです。漢籍、旧字旧仮名バッチコイ、という方は挑戦してみるとよいのでは。
母語のくせに、日本語をあまり使いこなせていない感がある。まあ、普段の会話で四字熟語とか慣用句とか多用していても、逆に笑いを取りに来ている、ふざけているのではないかと思われそうだが…母語での思考がしっかりしていないのに、日常会話だけ英語でできても、薄っぺらい気がしてならない。どうしても英語圏で生活しなければならないならやむを得ないが…日本で「すげー」「まじ?」「うそー!」しか語っていないのに、欧米で急に思想・思考を話せるとも思えない。まずは母語でしょう。
と思ったんだけど。挫けそう。これまでの読書量もそんなにないしな…我が家に幸田露伴の『努力論』があったが、ページをパラパラとめくっただけでクラクラ。露伴って名前は渋くて好きなんだけど、名前だけで本は読めませんね。
それでも、他の実用的な資格に比べると頑張れそうな気がする。私はどうも身近な他人と競い合うのが嫌なのか、マイナーなもの、マニアックなもの、実用的でないものに惹かれやすい。結局入ってからがどうにもならなそうだったので諦めていたけど、もし医学部に入っていたら法医学をやってみたかったなぁ。大体、医学部に行くって言うと、「じゃあ、俺(私)の病気も診てね」って言われるけど、「じゃあ、俺(私)が変死したらその原因をしっかり調べてね」とは絶対に言われない。そりゃそんな物騒な発想はなかなかしないでしょうが。
THE MANZAI2014の録画を見た。決勝組のネタは割と面白かったが、気に入ったのは博多華丸・大吉の「他人の子とゴーヤは育つのが早い」「腰痛持ちと女の一人旅は足を伸ばしたがる」みたいなフレーズ。説得力はすごいんだけど、対象の並べ方が突拍子もないというか思いつかなかったというか。
そんな年末。
我が家の冷蔵庫にチルド室があるということに、昨日初めて気付いた。個人的に、昨日まであのスペースは特別なものを入れておくところだと思っていた。特別なものって何かって言われると、そんな特別なものは何も食べていないけれども、強いて挙げればベーコンとかピザ用のチーズとか…割と使いやすい食品?
漢検の準1級を受けてみようと思い立った。と言いつつ、なかなか勉強は捗らないが…とりあえず去年の過去問は3回分解いてみた。正解率は40%前後をウロウロ。ちなみに、合格点は80%以上(難易度関係なし)。自分がそのスコアに到達する姿が想像できない。
世の中には四字熟語があんなに溢れているのですね。ほとんど知らないものばかりだし、知っているのも漢字は書けない。四字熟語どころか、単なる読みの問題ですら結構わからない。そんな準1級ですが、1級と準1級の差に比べれば、準1級と2級の差なんて屁みたいなものらしいです。漢籍、旧字旧仮名バッチコイ、という方は挑戦してみるとよいのでは。
母語のくせに、日本語をあまり使いこなせていない感がある。まあ、普段の会話で四字熟語とか慣用句とか多用していても、逆に笑いを取りに来ている、ふざけているのではないかと思われそうだが…母語での思考がしっかりしていないのに、日常会話だけ英語でできても、薄っぺらい気がしてならない。どうしても英語圏で生活しなければならないならやむを得ないが…日本で「すげー」「まじ?」「うそー!」しか語っていないのに、欧米で急に思想・思考を話せるとも思えない。まずは母語でしょう。
と思ったんだけど。挫けそう。これまでの読書量もそんなにないしな…我が家に幸田露伴の『努力論』があったが、ページをパラパラとめくっただけでクラクラ。露伴って名前は渋くて好きなんだけど、名前だけで本は読めませんね。
それでも、他の実用的な資格に比べると頑張れそうな気がする。私はどうも身近な他人と競い合うのが嫌なのか、マイナーなもの、マニアックなもの、実用的でないものに惹かれやすい。結局入ってからがどうにもならなそうだったので諦めていたけど、もし医学部に入っていたら法医学をやってみたかったなぁ。大体、医学部に行くって言うと、「じゃあ、俺(私)の病気も診てね」って言われるけど、「じゃあ、俺(私)が変死したらその原因をしっかり調べてね」とは絶対に言われない。そりゃそんな物騒な発想はなかなかしないでしょうが。
THE MANZAI2014の録画を見た。決勝組のネタは割と面白かったが、気に入ったのは博多華丸・大吉の「他人の子とゴーヤは育つのが早い」「腰痛持ちと女の一人旅は足を伸ばしたがる」みたいなフレーズ。説得力はすごいんだけど、対象の並べ方が突拍子もないというか思いつかなかったというか。
そんな年末。
2014年12月26日金曜日
だが断る!
半年前は『花子とアン』が放送されていたのかぁ…『マッサン』はなかなか連ドラにしては見ごたえがあります。伏線があってちゃんと回収される(前作は「伏線?何それおいしいの?」状態だった)し、堤真一が男前だし…玉山鉄二はSHAZNAのIZAMにちょいちょい見えて、それがときどき気になる。が、まあウイスキーに手を出したくなる程度にはいいドラマです。今度はガラナで割ってみよう。
色々書きたいことはあったのだけれど、書き出すと愚痴になりそうだし、かと言って書かないと心の中に澱が溜まってしまう気がする。
というわけで、当たり障りのないことを書こう。いや、あるかも。
マタニティヌードというんだろうか、お腹しか出てないのはヌードではないのかな、ああいう写真を公開している人ってどういう気持ちなんだろうか。
プライベートで記念に撮っておくぐらいはわかるんだけれども、それをSNSの自分の写真にするっていうのは…何だろう、用を足す姿を見せてるぐらいの気持ち悪さがある 。いっそ「ここから赤ちゃん出てきまーす♪」って大股開きの写真にした方が清々しい。って、即(ノ゚Д゚)八(゚Д゚ )ノタイーホでしょうから、清々しくはないか。
「妊娠しても綺麗でしょ、私」って言いたいのかしら。本当にそう直接言葉にしてくれれば素直なもんだと思いますが、大抵こういう人って「たまたまうまく撮れたの~♡」とか謙虚ぶっちゃうのがアガアガアガ。向こうが無理して褒めてくれてるんだから、素直に褒められとけって(*´艸`*)
でも、こういう考えって少数派ですかね。実は(というほど知って驚きも感動もないけれども)昔は私も謙虚ぶってました。褒められても「そんなことないです~…」とか何とか言って。あるとき、そんな状況の中、サークルの先輩(女子大の人)から「そういうときはありがとうって言えばいいんだよ」と注意され、当時は「謙遜ってダメなの!?」と考えたものですが、色々考えた結果、現在は「よし、素直にお礼を言っておこう」ということになりました。その方がどっちに転んでも、褒めてくれた人に微妙なしこりを残さないかと思って。当時の私は卑屈すぎて人からよく注意を受けたので、その先輩が言ったのは別の意味だったのかもしれないけれど…まあ、いいんです。今の私が納得できれば。
私が不寛容なのは、その納得できる幅が狭いということかもしれない。不寛容なのかなぁ。世の中、寛容なつもりでもっと理不尽な人も少なくない気がするが…気のせいかもしれないねぇ。統計とったわけじゃなし。理詰めで説明してもらえれば、理解はできる方だと思います…え、そんなの当たり前だって!?いや、世の中自分の信仰以外はどんな説明も受け入れない御仁もいらっしゃってですねぇ…
自分の狭量さをブログを通じて世界に向けて発信しているのも、大概恥ずかしいものですね。でも、こういう人間が存在するということで、誰かの支えになったり誰かに共感されたりしたい、というほんのわずかな可能性にほんの少しだけ期待して、言葉を紡いでいるのかもしれない。
だったらまず、更新頻度を上げるべきだな( ー`дー´)キリッ
色々書きたいことはあったのだけれど、書き出すと愚痴になりそうだし、かと言って書かないと心の中に澱が溜まってしまう気がする。
というわけで、当たり障りのないことを書こう。いや、あるかも。
マタニティヌードというんだろうか、お腹しか出てないのはヌードではないのかな、ああいう写真を公開している人ってどういう気持ちなんだろうか。
プライベートで記念に撮っておくぐらいはわかるんだけれども、それをSNSの自分の写真にするっていうのは…何だろう、用を足す姿を見せてるぐらいの気持ち悪さがある 。いっそ「ここから赤ちゃん出てきまーす♪」って大股開きの写真にした方が清々しい。って、即(ノ゚Д゚)八(゚Д゚ )ノタイーホでしょうから、清々しくはないか。
「妊娠しても綺麗でしょ、私」って言いたいのかしら。本当にそう直接言葉にしてくれれば素直なもんだと思いますが、大抵こういう人って「たまたまうまく撮れたの~♡」とか謙虚ぶっちゃうのがアガアガアガ。向こうが無理して褒めてくれてるんだから、素直に褒められとけって(*´艸`*)
でも、こういう考えって少数派ですかね。実は(というほど知って驚きも感動もないけれども)昔は私も謙虚ぶってました。褒められても「そんなことないです~…」とか何とか言って。あるとき、そんな状況の中、サークルの先輩(女子大の人)から「そういうときはありがとうって言えばいいんだよ」と注意され、当時は「謙遜ってダメなの!?」と考えたものですが、色々考えた結果、現在は「よし、素直にお礼を言っておこう」ということになりました。その方がどっちに転んでも、褒めてくれた人に微妙なしこりを残さないかと思って。当時の私は卑屈すぎて人からよく注意を受けたので、その先輩が言ったのは別の意味だったのかもしれないけれど…まあ、いいんです。今の私が納得できれば。
私が不寛容なのは、その納得できる幅が狭いということかもしれない。不寛容なのかなぁ。世の中、寛容なつもりでもっと理不尽な人も少なくない気がするが…気のせいかもしれないねぇ。統計とったわけじゃなし。理詰めで説明してもらえれば、理解はできる方だと思います…え、そんなの当たり前だって!?いや、世の中自分の信仰以外はどんな説明も受け入れない御仁もいらっしゃってですねぇ…
自分の狭量さをブログを通じて世界に向けて発信しているのも、大概恥ずかしいものですね。でも、こういう人間が存在するということで、誰かの支えになったり誰かに共感されたりしたい、というほんのわずかな可能性にほんの少しだけ期待して、言葉を紡いでいるのかもしれない。
だったらまず、更新頻度を上げるべきだな( ー`дー´)キリッ
2014年6月16日月曜日
能あるはなは詰めを隠す
昔は朝の連続テレビ小説なんて誰が見るんだろうと思っていた。
今の私です\(^o^)/
『純と愛』の総集編を見て、「何じゃこりゃ。ヘンテコだけどつい見てしまうな」と思いつつ、『あまちゃん』はたまたまテレビをつけたときに映っていた役者の演技が学芸会レベルにしか見えなかったのと、世間の人達があまりにじぇじぇじぇじぇ五月蝿い(私の周囲にはいなかったけど)ので鬱陶しくなって全然見なかった。
私が本格的に見だしたのは『ごちそうさん』からである。予告編で見た料理が美味しそうで、美味しそうな料理を見ているだけで幸せな気分になれる私は、「よし、見よう!」と心に決めたのだった。ヒロイン役の杏の顔は、もう杏にしか見えない!といった癖のある顔だと最初は感じていたのだが、毎日のように見続けるとは凄いもので、途中からめ以子(ヒロインの名前)にしか見えなくなった。というより、杏の演技が上手かったからかな?
そして、今は『花子とアン』を見ているわけだが…。まあ展開が気になるっちゃ気になるし、割と楽しみにもしているのだけど、時々「ん?」と引っかかる箇所がある。
先週見たのでは、はな(ヒロイン)が教師を辞めて専業作家になるため上京することになったのだが、いつもはなに「女はとっとと嫁に行け」のような嫌味な言葉を浴びせかけていた緑川先生(同僚の教師)が、「元気で頑張れ」と声をかけ、はなちゃん感激!というシーン。緑川先生は心から応援しているのだろうか。本当はせいせいしているんではないだろうか。はなの祖父が亡くなったとき(先週放映分)も、「おじいさんも君の花嫁姿見たかっただろうねぇ」とか何とか言ってたぞ。何でそんなに素直に言葉を額面通り受け止められるんだ。
そもそも娘時代からはな役が吉高由里子になった時点で、ヒロイン1人だけがフワフワした存在になっていた。子供時代のはなは、訛りで注意されるし、マナーも身についていないし、英語の授業には全然ついていけてなかったのに、娘時代のはなは訛りもなく、英語の成績は常にトップ。努力してそうなったということだろうけど、そのプロセスについては何も描写がなかったので、私にとってこの2人は別人にしか見えない。急に降って湧いた吉高さん。
地元で教師をしているときも、周りの家族は小作農家らしい身なりで顔も日に焼けて黒いのに、吉高さんは小綺麗な格好で生活苦のないお嬢さんに見えてしまう。生徒達から若い女の先生だというので舐められていたはずなのに、視聴者の知らない間に慕われる存在になっていたり…はなってきっと魔法使いだったんだな、というぐらい順風満帆な人生を送っているのであります。
何だかんだ言いつつ、きっと明日も見るんですけどね。
今の私です\(^o^)/
『純と愛』の総集編を見て、「何じゃこりゃ。ヘンテコだけどつい見てしまうな」と思いつつ、『あまちゃん』はたまたまテレビをつけたときに映っていた役者の演技が学芸会レベルにしか見えなかったのと、世間の人達があまりにじぇじぇじぇじぇ五月蝿い(私の周囲にはいなかったけど)ので鬱陶しくなって全然見なかった。
私が本格的に見だしたのは『ごちそうさん』からである。予告編で見た料理が美味しそうで、美味しそうな料理を見ているだけで幸せな気分になれる私は、「よし、見よう!」と心に決めたのだった。ヒロイン役の杏の顔は、もう杏にしか見えない!といった癖のある顔だと最初は感じていたのだが、毎日のように見続けるとは凄いもので、途中からめ以子(ヒロインの名前)にしか見えなくなった。というより、杏の演技が上手かったからかな?
そして、今は『花子とアン』を見ているわけだが…。まあ展開が気になるっちゃ気になるし、割と楽しみにもしているのだけど、時々「ん?」と引っかかる箇所がある。
先週見たのでは、はな(ヒロイン)が教師を辞めて専業作家になるため上京することになったのだが、いつもはなに「女はとっとと嫁に行け」のような嫌味な言葉を浴びせかけていた緑川先生(同僚の教師)が、「元気で頑張れ」と声をかけ、はなちゃん感激!というシーン。緑川先生は心から応援しているのだろうか。本当はせいせいしているんではないだろうか。はなの祖父が亡くなったとき(先週放映分)も、「おじいさんも君の花嫁姿見たかっただろうねぇ」とか何とか言ってたぞ。何でそんなに素直に言葉を額面通り受け止められるんだ。
そもそも娘時代からはな役が吉高由里子になった時点で、ヒロイン1人だけがフワフワした存在になっていた。子供時代のはなは、訛りで注意されるし、マナーも身についていないし、英語の授業には全然ついていけてなかったのに、娘時代のはなは訛りもなく、英語の成績は常にトップ。努力してそうなったということだろうけど、そのプロセスについては何も描写がなかったので、私にとってこの2人は別人にしか見えない。急に降って湧いた吉高さん。
地元で教師をしているときも、周りの家族は小作農家らしい身なりで顔も日に焼けて黒いのに、吉高さんは小綺麗な格好で生活苦のないお嬢さんに見えてしまう。生徒達から若い女の先生だというので舐められていたはずなのに、視聴者の知らない間に慕われる存在になっていたり…はなってきっと魔法使いだったんだな、というぐらい順風満帆な人生を送っているのであります。
何だかんだ言いつつ、きっと明日も見るんですけどね。
2013年10月16日水曜日
ぎゅっとしてみたり しゃんとしたり
大学時代はなぜあんなに馬鹿みたいにブログを更新していたんだろう。まあ、馬鹿みたいっていうか馬鹿だったんですが。
一昨日だったかakiさんと話していたら、大学時代に会心の出来だと思えたレポートは2通ぐらいしかないと言われた。私にはそんな風に思えたレポートなんて自慢ではないが、いや、もう自慢かもしれない、ひとつもない。成績表の話で言えば、優・良・可・不可の優もいくらかはあったが、教授が優しかったか甘かったか何かしら反応したら優をくれるシステムだったかに思えてならない。
「卒論はタイトルしか覚えていない」とakiさん。「タイトルも覚えてないや」と私。ダメ人間すぎる。今の私が高校時代の私にアドバイスするとしたら、「高卒で就職してもいいんじゃない?」ってことだろうか。高校時代もぼんやり考えていたけど、周りになかなかそういう人がいないし。高卒で一旦就職したものの短大に入り直した、 部活の2年先輩の女の人はいたけれど。マイペースなりに自分で決めて行動するというのが、格好良く見えたなぁ。ほんの少しの勇気と行動力なのに、意外と出せないもんです。
…ってこんな反省会をするつもりではなかったんだった。最近ハマっているものについて書こうと思っていたのだ。それは、スポンジ。特に食器洗い用のスポンジを見ると、しばらくそこでウィンドウショッピングしてしまう。
きっかけはマーナのおさかなスポンジを使ったことだった。自分で買うと値段重視で、イ○ンの安いプライベートブランドのスポンジなどを使っていたのだが、すぐにへなへなになるし、食器洗いは苦にしか感じられなかった。でも、おさかなスポンジは可愛いし結構丈夫で、洗い物が大量にあるとかでなければ、むしろ進んで食器洗いしたくなる洗い心地なのである。
今は、やっぱりマーナのおはなスポンジを使用しているが、個人的にはおさかなの方がたくさん洗うには向いていると思う。おはなは握りつぶしてしまいそうで、若干不安を感じてしまう。ちなみに、おはなスポンジは近所のイオンで買った。このイオン、食器洗いのコーナーはほとんどマーナで占められていた。むしろ安いプライベートブランドのがひとつもなくて驚きだった。近所の奥様方のニーズに合わせた結果なのかしら。
変な趣味かと思っていたけれど、ネットで見ているとスポンジ好きな人は一定数いるようだ。主婦にはキクロン、ダスキンも人気みたい。 へたらないというので。店で触った感触しか知らないけど、キクロンの研磨粒子入りの不織布部分は鍋なんかゴシゴシ遠慮なく洗えそうで、ちょっと欲しくなった。メーカーのページで色々探すのも、また楽しい。
というわけで、最近になってようやくホームセンターとか雑貨屋に行くのが楽しい人の気持ちが、少しわかるようになったのでした。
一昨日だったかakiさんと話していたら、大学時代に会心の出来だと思えたレポートは2通ぐらいしかないと言われた。私にはそんな風に思えたレポートなんて自慢ではないが、いや、もう自慢かもしれない、ひとつもない。成績表の話で言えば、優・良・可・不可の優もいくらかはあったが、教授が優しかったか甘かったか何かしら反応したら優をくれるシステムだったかに思えてならない。
「卒論はタイトルしか覚えていない」とakiさん。「タイトルも覚えてないや」と私。ダメ人間すぎる。今の私が高校時代の私にアドバイスするとしたら、「高卒で就職してもいいんじゃない?」ってことだろうか。高校時代もぼんやり考えていたけど、周りになかなかそういう人がいないし。高卒で一旦就職したものの短大に入り直した、 部活の2年先輩の女の人はいたけれど。マイペースなりに自分で決めて行動するというのが、格好良く見えたなぁ。ほんの少しの勇気と行動力なのに、意外と出せないもんです。
…ってこんな反省会をするつもりではなかったんだった。最近ハマっているものについて書こうと思っていたのだ。それは、スポンジ。特に食器洗い用のスポンジを見ると、しばらくそこでウィンドウショッピングしてしまう。
きっかけはマーナのおさかなスポンジを使ったことだった。自分で買うと値段重視で、イ○ンの安いプライベートブランドのスポンジなどを使っていたのだが、すぐにへなへなになるし、食器洗いは苦にしか感じられなかった。でも、おさかなスポンジは可愛いし結構丈夫で、洗い物が大量にあるとかでなければ、むしろ進んで食器洗いしたくなる洗い心地なのである。
今は、やっぱりマーナのおはなスポンジを使用しているが、個人的にはおさかなの方がたくさん洗うには向いていると思う。おはなは握りつぶしてしまいそうで、若干不安を感じてしまう。ちなみに、おはなスポンジは近所のイオンで買った。このイオン、食器洗いのコーナーはほとんどマーナで占められていた。むしろ安いプライベートブランドのがひとつもなくて驚きだった。近所の奥様方のニーズに合わせた結果なのかしら。
変な趣味かと思っていたけれど、ネットで見ているとスポンジ好きな人は一定数いるようだ。主婦にはキクロン、ダスキンも人気みたい。 へたらないというので。店で触った感触しか知らないけど、キクロンの研磨粒子入りの不織布部分は鍋なんかゴシゴシ遠慮なく洗えそうで、ちょっと欲しくなった。メーカーのページで色々探すのも、また楽しい。
というわけで、最近になってようやくホームセンターとか雑貨屋に行くのが楽しい人の気持ちが、少しわかるようになったのでした。
2013年8月6日火曜日
重そうで重くない少し重いテーマ
今日は広島に原爆投下された日というので、子供に戦争をどう伝えればいいか、というテーマをテレビで取り上げていた。
私が通っていた小学校は、特に空襲が酷かった地域にあったわけでもないと思うのだが、やたらと平和教育とやらに熱心だった。毎年夏になると原爆関連の資料・絵画展なんかが開かれて、クラス全員でワラワラと見に行ったものである。2年生のときだっただろうか、原爆で焼けただれた人の絵などが展示されていたのを見て、男子が1人気分が悪くなって退出したのは記憶に残っている。何が描かれていたのかなどは、よく覚えていない。
小学生だった私は、何か惹きつけられるものがあったのか、戦争関係の本を繰り返し読んでいた。『ガラスのうさぎ』とか『ふたりのイーダ』とか…『ヒロシマのうた』というのもあったかも。今大人になった自分から見たら、この執着っぷりは大丈夫か心配するのではないかと思われるぐらい、のめり込んだ時期がある。理由を考察してみるに、戦争が遠い過去の話となってしまった世代の私にとっては、こういった話はファンタジーの1ジャンルぐらいの捉え方だったのかもしれない。その証拠(?)に、今でも「核兵器廃絶を!」「戦争は悲惨だからやってはいけないんだ!」などと強く思ったり主張したりするようにはならなかった。もちろん、平和な世の中であるに越したことはないのだけれど。
話は戻って、テレビでは親子で原爆資料館のようなところに行く、語り部から話を聞く、などという試みが放送されていた。しかし、そういうところで見聞きするものって、悲惨さばかり強調されるのね。罪のない市民が巻き込まれた、みたいな。関係ないけど、この“罪のない”という表現、私は嫌いです。“罪のない”人っていうのは、犯罪者じゃないってこと?逆に言うと、A級戦犯なんかは殺されてよかったってこと?人間というのは、罪はなくても業というのは多かれ少なかれある、と私は考えている。ただ、業があるから殺してもいい、ということにはならないし、罪がないから殺されるはずがない、ということにもならない気がする。言葉の綾に噛み付きすぎかしら。
ともかく、戦争を伝える=太平洋戦争の悲惨さを伝える、ということになってしまっていて、「過激な展示もあり、子供に見せるのは躊躇してしまいます」という意見も出る始末。 小学生ぐらいだと、それが手っ取り早く戦争を伝えられる手段なんだろうか。手っ取り早く伝えることに意味があるのか知らないけれど。何が変と思うかって例えば、津波に気をつけようというときに、水死体の絵だか写真だか見せて終わりにするのか、っていうこと。具体的にどう逃げるか、どこに逃げるかという話をするでしょう。
「戦争は国のお偉方が決めることで、罪のない市民がどうにかできるものじゃない」と言うのなら、平和教育の有効性を自ら否定する矛盾に陥ると思うのだけれど。デモも座り込みも無意味だから止めればいい。目的を忘れて、あるいはそもそも考えずに手段に酔っているだけ。
戦争を経験していないからこそ、客観的に捉えられるものがあるのではないだろうか。経験者に共感しているだけでは、そういう体験もあっていいけれど、前に進まないし。本当に太平洋戦争について考えたいなら、まず明治からの日本の政治・外交について徹底的に学ばないと。その手間を惜しむぐらいなら、何も教えない方がよい。知識・教養の二極化が進むかもしれないけれど、状況は大して変わらないのではないか。
私が通っていた小学校は、特に空襲が酷かった地域にあったわけでもないと思うのだが、やたらと平和教育とやらに熱心だった。毎年夏になると原爆関連の資料・絵画展なんかが開かれて、クラス全員でワラワラと見に行ったものである。2年生のときだっただろうか、原爆で焼けただれた人の絵などが展示されていたのを見て、男子が1人気分が悪くなって退出したのは記憶に残っている。何が描かれていたのかなどは、よく覚えていない。
小学生だった私は、何か惹きつけられるものがあったのか、戦争関係の本を繰り返し読んでいた。『ガラスのうさぎ』とか『ふたりのイーダ』とか…『ヒロシマのうた』というのもあったかも。今大人になった自分から見たら、この執着っぷりは大丈夫か心配するのではないかと思われるぐらい、のめり込んだ時期がある。理由を考察してみるに、戦争が遠い過去の話となってしまった世代の私にとっては、こういった話はファンタジーの1ジャンルぐらいの捉え方だったのかもしれない。その証拠(?)に、今でも「核兵器廃絶を!」「戦争は悲惨だからやってはいけないんだ!」などと強く思ったり主張したりするようにはならなかった。もちろん、平和な世の中であるに越したことはないのだけれど。
話は戻って、テレビでは親子で原爆資料館のようなところに行く、語り部から話を聞く、などという試みが放送されていた。しかし、そういうところで見聞きするものって、悲惨さばかり強調されるのね。罪のない市民が巻き込まれた、みたいな。関係ないけど、この“罪のない”という表現、私は嫌いです。“罪のない”人っていうのは、犯罪者じゃないってこと?逆に言うと、A級戦犯なんかは殺されてよかったってこと?人間というのは、罪はなくても業というのは多かれ少なかれある、と私は考えている。ただ、業があるから殺してもいい、ということにはならないし、罪がないから殺されるはずがない、ということにもならない気がする。言葉の綾に噛み付きすぎかしら。
ともかく、戦争を伝える=太平洋戦争の悲惨さを伝える、ということになってしまっていて、「過激な展示もあり、子供に見せるのは躊躇してしまいます」という意見も出る始末。 小学生ぐらいだと、それが手っ取り早く戦争を伝えられる手段なんだろうか。手っ取り早く伝えることに意味があるのか知らないけれど。何が変と思うかって例えば、津波に気をつけようというときに、水死体の絵だか写真だか見せて終わりにするのか、っていうこと。具体的にどう逃げるか、どこに逃げるかという話をするでしょう。
「戦争は国のお偉方が決めることで、罪のない市民がどうにかできるものじゃない」と言うのなら、平和教育の有効性を自ら否定する矛盾に陥ると思うのだけれど。デモも座り込みも無意味だから止めればいい。目的を忘れて、あるいはそもそも考えずに手段に酔っているだけ。
戦争を経験していないからこそ、客観的に捉えられるものがあるのではないだろうか。経験者に共感しているだけでは、そういう体験もあっていいけれど、前に進まないし。本当に太平洋戦争について考えたいなら、まず明治からの日本の政治・外交について徹底的に学ばないと。その手間を惜しむぐらいなら、何も教えない方がよい。知識・教養の二極化が進むかもしれないけれど、状況は大して変わらないのではないか。
2013年7月12日金曜日
1.7327071075
決して忙しすぎてネットなどしている暇がないわけではない。が、やはり何らかの意見なり感想なりをまとめようとすると、途端に指が動かなくなる。こういうとき、“腰が重い”というのは適当な表現なのだろうか。「いや〜、腰が重くってブログの更新ができないんですよ」って、変な感じ。情報端末を持ち歩くこんな時代にふさわしい表現とは。
割と前になるが、村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読んだ。本当は読むつもりなどなかった。私は素直ではないので、メディアで頻繁に取り上げているものには手を出したくなくなるのだ。みんなミーハーだなぁ、と思っていたら、お義母さんが読みたかったそうで、akiさんが買ってきた。「先に読んでもいいって」と言われ、結果的に私が最初に読んでしまった。傍から見たら、私がミーハーにしか見えないよね。
私は文学の解釈というものが苦手で、小説を読んでも基本的には娯楽として消費しているだけである。文藝春秋6月号で、石原千秋が夏目漱石の『こころ』と村上春樹の『ノルウェイの森』の共通点は何かについて書いていて、その『こころ』の解釈に新鮮な驚きを覚えた。この記事を読んだ直後は、小説の解釈って面白そうだなと思ったが、あまり深入りすると何のため、誰のための解釈なのかという問題になりそうな気がして、結局こういうのは一部の頭のよい人が生活の片手間に知的な遊びとしてやるぐらいがベストではないだろうか、という結論に至る。そして、私の小説を読むスタンスも変わらないまま。
村上春樹の作品でも、「共感できる」「わかる」と言う人は少なくないが、彼の作品に限らずほぼすべての小説について、私は「わかる」と言えない。あそこに書いてあった文の意味がわからない、主人公の気持ちは何でこうなるかなー、など自分の頭脳と感性では把握しきれないことがあると、例えある部分の文章が自分が考えたことと何らかの一致を見たとしても、それで理解したとは言い難い気がしてしまうのである。結果が15であっても、そこに至る式は3+4+8かもしれないし、あるいは私にわかっているのは3+4+△+○ということだけなのかもしれない。
私がやたらと“わかる”を神聖視しているだけで、別にそんなに深い意味はなくていいのかもしれない。少しでも似たようなことを考えたことがあると感じたなら、「わかる」と言ってしまっても問題はないのだろう。そもそもこんな話で嘘をついたところで、誰も迷惑を被らないわけだし。しかし次には、そんな表層的な言葉のやりとりで虚しくないか?、と思ってしまう。まあ、私も物事の本質を考えることは嫌いではないが、本質に迫れているかとは別問題であって、実際に私と話すと虚しい思いを抱く人が大勢だったりして。
“成長する”も自分に対して使うには、抵抗がある。多くの場合、「私、成長したわー」というよりは「成長している気がしない」という文脈で使われるように思うが。前者も皆無ではない。個人的には、神経がまともなら成長なんてそう肯定的に捉えられないものだと考えている。例えば、全然ギターが弾けなかった人がコードを覚えてポロンポロン鳴らせるようになったら、それは成長したと言えるかもしれない。が、それはゼロからの進歩だから大きく感じられるのである。0→1と99→100では感じられる進歩の度合いは違うに決まっている。
最近は何でも前向きに言うのが流行りなのか、「今まで全然そんなこと考えたことなかったんですけど、今回のことで学びました~」と宣う人をよく見る。そういうのを見るたびに、今まで何も考えてなさすぎるだろうと感じることがほとんどだ。今知ってさえいれば(それも怪しいが)、過去知らなかったことは恥でも何でもない、という感覚はちょっと理解し難い。「昔は万引きなんかよくやったもんですけど、今は落ち着いて結婚して子供もいます~」と平気で公表できるメンタリティと大して変わらない気がしてしまう。個人的には。
つまり、成長する=過去を恥じるということなんだろうと思う。だから私にとって、自分が成長したことを明るく報告する機会なんてないのである。あるいは過去を恥じずに言えるときは、何か新しいことに挑戦したときであろう。しかし、「成長した」と言いたいがために何かを始めるもんでもないと思う。それでも何でも成長したい人は、何のための成長なのかをよく考えた方がいいと思う。そもそも成長はどんな場面でも例外なく善なのか。
ここ数日間暑いせいか、昨日財布にお金が入っていなかったからATMでおろさなきゃと言っていたakiさんは、今日財布ごと忘れて行っちゃうし、coopの宅配の人は1階下の家の前に荷物を置いて行っちゃうし。私はこんな記事書いてるし。ま、それは毎度のことだけど。札幌でそうなんだから、連日39℃超えしている地域とかどうなっちゃうんでしょうか。
割と前になるが、村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読んだ。本当は読むつもりなどなかった。私は素直ではないので、メディアで頻繁に取り上げているものには手を出したくなくなるのだ。みんなミーハーだなぁ、と思っていたら、お義母さんが読みたかったそうで、akiさんが買ってきた。「先に読んでもいいって」と言われ、結果的に私が最初に読んでしまった。傍から見たら、私がミーハーにしか見えないよね。
私は文学の解釈というものが苦手で、小説を読んでも基本的には娯楽として消費しているだけである。文藝春秋6月号で、石原千秋が夏目漱石の『こころ』と村上春樹の『ノルウェイの森』の共通点は何かについて書いていて、その『こころ』の解釈に新鮮な驚きを覚えた。この記事を読んだ直後は、小説の解釈って面白そうだなと思ったが、あまり深入りすると何のため、誰のための解釈なのかという問題になりそうな気がして、結局こういうのは一部の頭のよい人が生活の片手間に知的な遊びとしてやるぐらいがベストではないだろうか、という結論に至る。そして、私の小説を読むスタンスも変わらないまま。
村上春樹の作品でも、「共感できる」「わかる」と言う人は少なくないが、彼の作品に限らずほぼすべての小説について、私は「わかる」と言えない。あそこに書いてあった文の意味がわからない、主人公の気持ちは何でこうなるかなー、など自分の頭脳と感性では把握しきれないことがあると、例えある部分の文章が自分が考えたことと何らかの一致を見たとしても、それで理解したとは言い難い気がしてしまうのである。結果が15であっても、そこに至る式は3+4+8かもしれないし、あるいは私にわかっているのは3+4+△+○ということだけなのかもしれない。
私がやたらと“わかる”を神聖視しているだけで、別にそんなに深い意味はなくていいのかもしれない。少しでも似たようなことを考えたことがあると感じたなら、「わかる」と言ってしまっても問題はないのだろう。そもそもこんな話で嘘をついたところで、誰も迷惑を被らないわけだし。しかし次には、そんな表層的な言葉のやりとりで虚しくないか?、と思ってしまう。まあ、私も物事の本質を考えることは嫌いではないが、本質に迫れているかとは別問題であって、実際に私と話すと虚しい思いを抱く人が大勢だったりして。
“成長する”も自分に対して使うには、抵抗がある。多くの場合、「私、成長したわー」というよりは「成長している気がしない」という文脈で使われるように思うが。前者も皆無ではない。個人的には、神経がまともなら成長なんてそう肯定的に捉えられないものだと考えている。例えば、全然ギターが弾けなかった人がコードを覚えてポロンポロン鳴らせるようになったら、それは成長したと言えるかもしれない。が、それはゼロからの進歩だから大きく感じられるのである。0→1と99→100では感じられる進歩の度合いは違うに決まっている。
最近は何でも前向きに言うのが流行りなのか、「今まで全然そんなこと考えたことなかったんですけど、今回のことで学びました~」と宣う人をよく見る。そういうのを見るたびに、今まで何も考えてなさすぎるだろうと感じることがほとんどだ。今知ってさえいれば(それも怪しいが)、過去知らなかったことは恥でも何でもない、という感覚はちょっと理解し難い。「昔は万引きなんかよくやったもんですけど、今は落ち着いて結婚して子供もいます~」と平気で公表できるメンタリティと大して変わらない気がしてしまう。個人的には。
つまり、成長する=過去を恥じるということなんだろうと思う。だから私にとって、自分が成長したことを明るく報告する機会なんてないのである。あるいは過去を恥じずに言えるときは、何か新しいことに挑戦したときであろう。しかし、「成長した」と言いたいがために何かを始めるもんでもないと思う。それでも何でも成長したい人は、何のための成長なのかをよく考えた方がいいと思う。そもそも成長はどんな場面でも例外なく善なのか。
ここ数日間暑いせいか、昨日財布にお金が入っていなかったからATMでおろさなきゃと言っていたakiさんは、今日財布ごと忘れて行っちゃうし、coopの宅配の人は1階下の家の前に荷物を置いて行っちゃうし。私はこんな記事書いてるし。ま、それは毎度のことだけど。札幌でそうなんだから、連日39℃超えしている地域とかどうなっちゃうんでしょうか。
2013年3月12日火曜日
ひとのきもち
1月にアルジェリア人質事件が起きた。犯行グループが出した声明の中に、目的を達成するためなら死ぬのは厭わないというような文言が入っていた、という報道を聞いてピンと来なかった。そう言えば交渉に勝つと思っているだけで、実際攻撃されるなんて思っていないのではないか、と考えたからである。しかし、akiさんに言わせると、死ぬ覚悟はできているのではないか、という考えであった。ここまで、アルジェリア政府の救出作戦開始前の話。その結末は…
他人の気持ちをわかる、ということは困難である。相手の立場に立ってみることはできても、相手と同じ価値観で考えることができなければ、相手の気持ちを理解することはできない。あるいは価値観はそれほど違わなかったとしても、その状況の切迫感や緊張感を相手と同じように感じられなければ、やはり相手の気持ちを理解することはできない。パジャマ姿で「いやー、恐いねー」とテレビを見ているだけの私が、自分たちの正義を信じて実力行使に出ている人たちの思考や感情を汲むことは、ほとんど不可能だったのである。
一般人の声として、「テロなんて卑劣な手段は絶対に許されません!」というのがあるが、“勝てば官軍、負ければ賊軍”とはよく表現されたフレーズである。偉人の言葉の中には、彼(女)が言ったから取り上げられただけではないかと思えるものもあるが、このフレーズは誰が言ったとしても真実だと思える。
数年前のことだが、「お前は心を開かない」と怒られたことがある。今思えば、「それは貴方と私の間にそれだけの信頼関係がないからではないですか」と反論すればよかったとも思うが、当時馬鹿正直だった私は、心を開く=思ったことを言う、と解釈した。そして、思いつくままに「そんなにこきおろして罵ってばかりいる相手と、一緒にいる意味がわからない。別れればいいのに」と言ったら、「(その相手にも)いいところがあるからくぁwせdrftgyふじこlp」と言っていた。
どうやら、同じ言葉でも人によって定義が違うようだ。彼女にとって、心を開く=彼女の聞きたい言葉(感謝、賛辞など)を言う、ということだったらしい。その場限りの人間関係であれば、適当に多少はお世辞をいうなり悪いことは言わないなり、といった対応をしてもいいが…一方的に気を遣う関係性のまま、さらに相手に優越感に浸らせるようなことをしたくはない、と思ってしまったのは、私が意地っ張りなんだろうか。
後日、「あなたのせいで別れることになりました」とメールが来たが無視していたら、さらにそのあと尋ねてもいないのに「別れたくないと言われたので、別れられない」というメールが来ていた。何て自分本位で他責的な人間なんだろうと呆れていたが、案外少なくないのだろうか。そう思ったのは、大家族の密着ドキュメンタリーの番組を見たときだった。
その番組では、なよなよしたお父さんとしっかりしたお母さんという構図を強調していたが、どうもしっかりしたお母さんという表現には疑問符が。自らも夫の仕事を手伝い、忙しい中食事を作り、というのは大変だろうし凄いとは思う。が、要領よく自分の仕事をこなしていることが、夫に対してどういう暴言を吐いてもいい根拠にはならない。夫に直してもらいたいところは「全部!」と言っていたのが、非常に印象的だった。子供を作ったのも結婚したのも、自分の意思ではないの?天に唾していることに無自覚なのが恐ろしい。
まあ、番組は面白くするためにあえてそういう演出をしているのかもしれないけれど、それを見て共感している人たちが少なからずいるということだろうか。同じ民族でも、分かり合えるのはほんの一部。
他人の気持ちをわかる、ということは困難である。相手の立場に立ってみることはできても、相手と同じ価値観で考えることができなければ、相手の気持ちを理解することはできない。あるいは価値観はそれほど違わなかったとしても、その状況の切迫感や緊張感を相手と同じように感じられなければ、やはり相手の気持ちを理解することはできない。パジャマ姿で「いやー、恐いねー」とテレビを見ているだけの私が、自分たちの正義を信じて実力行使に出ている人たちの思考や感情を汲むことは、ほとんど不可能だったのである。
一般人の声として、「テロなんて卑劣な手段は絶対に許されません!」というのがあるが、“勝てば官軍、負ければ賊軍”とはよく表現されたフレーズである。偉人の言葉の中には、彼(女)が言ったから取り上げられただけではないかと思えるものもあるが、このフレーズは誰が言ったとしても真実だと思える。
数年前のことだが、「お前は心を開かない」と怒られたことがある。今思えば、「それは貴方と私の間にそれだけの信頼関係がないからではないですか」と反論すればよかったとも思うが、当時馬鹿正直だった私は、心を開く=思ったことを言う、と解釈した。そして、思いつくままに「そんなにこきおろして罵ってばかりいる相手と、一緒にいる意味がわからない。別れればいいのに」と言ったら、「(その相手にも)いいところがあるからくぁwせdrftgyふじこlp」と言っていた。
どうやら、同じ言葉でも人によって定義が違うようだ。彼女にとって、心を開く=彼女の聞きたい言葉(感謝、賛辞など)を言う、ということだったらしい。その場限りの人間関係であれば、適当に多少はお世辞をいうなり悪いことは言わないなり、といった対応をしてもいいが…一方的に気を遣う関係性のまま、さらに相手に優越感に浸らせるようなことをしたくはない、と思ってしまったのは、私が意地っ張りなんだろうか。
後日、「あなたのせいで別れることになりました」とメールが来たが無視していたら、さらにそのあと尋ねてもいないのに「別れたくないと言われたので、別れられない」というメールが来ていた。何て自分本位で他責的な人間なんだろうと呆れていたが、案外少なくないのだろうか。そう思ったのは、大家族の密着ドキュメンタリーの番組を見たときだった。
その番組では、なよなよしたお父さんとしっかりしたお母さんという構図を強調していたが、どうもしっかりしたお母さんという表現には疑問符が。自らも夫の仕事を手伝い、忙しい中食事を作り、というのは大変だろうし凄いとは思う。が、要領よく自分の仕事をこなしていることが、夫に対してどういう暴言を吐いてもいい根拠にはならない。夫に直してもらいたいところは「全部!」と言っていたのが、非常に印象的だった。子供を作ったのも結婚したのも、自分の意思ではないの?天に唾していることに無自覚なのが恐ろしい。
まあ、番組は面白くするためにあえてそういう演出をしているのかもしれないけれど、それを見て共感している人たちが少なからずいるということだろうか。同じ民族でも、分かり合えるのはほんの一部。
2013年1月12日土曜日
CROSS-BORDER
「まあ、書くのに5日はかかりますよ。何せエアメールなのでね」
「出してからは時間かかるけど、書くのは関係ないでしょ」
という会話からはや5日以上経過…いつからこんなに筆不精になったのか。
スーパーに買物に行ったとき、某メーカーのバターの内容量が200gから150gに減っていた。その商品のポップには、より使いやすくなりました、というような文句が書いてあった。価格はもちろん、200gのときよりは安いけれど、体の良い実質値上げだろう(と思う)。それとも、最近の消費者は新鮮さにこだわっているのか…。
その帰り道、ある建物の前を通ったら、駐車場内でのペットの散歩禁止の看板があった。それだけなら何も思わなかったが、看板の左側に『抱えても不可』とまで書いてあった。管理人が動物アレルギーなのだろうか。それとも、糞の始末をしない飼い主がいるという線が妥当かしら。いずれにしても散歩が駄目なら抱えていけばいいじゃない、という発想。何というかスゴい。
明けましておめでとうございます。
いつだったか特売日に買ったソーセージ。そろそろ賞味期限が切れそうだったので、何か料理しようとレシピを検索。最近はメーカーも親切で、この商品はこんな料理で使える、とレシピをサイトに載せていることが多い。そのソーセージを使ったレシピも見つかったが、1件しかなかった上に、トマトソースのパスタにソーセージを乗せただけだった。結局、ポトフに。素材が美味しければ、調理方法なんて何でもいいってことかも。
美容室に行ったとき、「顔で気になるところありますか?…例えば、顔が丸いところ、みたいな」と訊かれて、歯並びかなぁ、と思ったけれど、コンプレックスを何でもかんでも言えばいいというもんでもないかと、「あ、ないです」と自信満々に答えた。
その美容師の人と、PlayStation3のJOYSOUND DIVE(カラオケ)に全国採点の機能が追加されたが、トップの人たちのスコアが変態的に高いという話をしていたとき。
「それって顔とか見えるんですか?」
「いや、顔は見えないですねー」
「顔が見えたら、アイドルになれるかもしれないのにねー」
そんな歯の浮くようなことを言われても…は、は、は。
子供の頃、大人たちとテレビを見るとチャンネルは大体NHKだった。何が面白いのかさっぱりわからなかったが、最近は専らNHKばかり見ている。特に変わったのは、動物の生態やら人々の生活・暮らしというものに興味が出てきたことだろうか。今日も知床のヒグマの親子の映像を見ていた。どうして、動物の子供っていうのはああ可愛いんだろう。
NHK、クローズアップ現代の『急増 卵子提供』。自分の卵子では妊娠できない人が、タイなどで第三者から卵子提供を受ける、ということが増加しているらしい。卵子提供者は同じ日本人で、数十個単位の卵子を採取されるのだが、その報酬は60万円。少なすぎると思ったが、「お金儲けのための方はお断りしています」とは仲介業者の言。お 前 が 言 う な。
明日はTOEIC。最低スコアを叩き出す予定です。
「出してからは時間かかるけど、書くのは関係ないでしょ」
という会話からはや5日以上経過…いつからこんなに筆不精になったのか。
スーパーに買物に行ったとき、某メーカーのバターの内容量が200gから150gに減っていた。その商品のポップには、より使いやすくなりました、というような文句が書いてあった。価格はもちろん、200gのときよりは安いけれど、体の良い実質値上げだろう(と思う)。それとも、最近の消費者は新鮮さにこだわっているのか…。
その帰り道、ある建物の前を通ったら、駐車場内でのペットの散歩禁止の看板があった。それだけなら何も思わなかったが、看板の左側に『抱えても不可』とまで書いてあった。管理人が動物アレルギーなのだろうか。それとも、糞の始末をしない飼い主がいるという線が妥当かしら。いずれにしても散歩が駄目なら抱えていけばいいじゃない、という発想。何というかスゴい。
明けましておめでとうございます。
いつだったか特売日に買ったソーセージ。そろそろ賞味期限が切れそうだったので、何か料理しようとレシピを検索。最近はメーカーも親切で、この商品はこんな料理で使える、とレシピをサイトに載せていることが多い。そのソーセージを使ったレシピも見つかったが、1件しかなかった上に、トマトソースのパスタにソーセージを乗せただけだった。結局、ポトフに。素材が美味しければ、調理方法なんて何でもいいってことかも。
美容室に行ったとき、「顔で気になるところありますか?…例えば、顔が丸いところ、みたいな」と訊かれて、歯並びかなぁ、と思ったけれど、コンプレックスを何でもかんでも言えばいいというもんでもないかと、「あ、ないです」と自信満々に答えた。
その美容師の人と、PlayStation3のJOYSOUND DIVE(カラオケ)に全国採点の機能が追加されたが、トップの人たちのスコアが変態的に高いという話をしていたとき。
「それって顔とか見えるんですか?」
「いや、顔は見えないですねー」
「顔が見えたら、アイドルになれるかもしれないのにねー」
そんな歯の浮くようなことを言われても…は、は、は。
子供の頃、大人たちとテレビを見るとチャンネルは大体NHKだった。何が面白いのかさっぱりわからなかったが、最近は専らNHKばかり見ている。特に変わったのは、動物の生態やら人々の生活・暮らしというものに興味が出てきたことだろうか。今日も知床のヒグマの親子の映像を見ていた。どうして、動物の子供っていうのはああ可愛いんだろう。
NHK、クローズアップ現代の『急増 卵子提供』。自分の卵子では妊娠できない人が、タイなどで第三者から卵子提供を受ける、ということが増加しているらしい。卵子提供者は同じ日本人で、数十個単位の卵子を採取されるのだが、その報酬は60万円。少なすぎると思ったが、「お金儲けのための方はお断りしています」とは仲介業者の言。お 前 が 言 う な。
明日はTOEIC。最低スコアを叩き出す予定です。
2012年12月24日月曜日
踊る阿呆に
最近は書こうかなと思ってもなかなか書き出せずにいる。書いた内容で軋轢を増やさないか、人間性を疑われないか、など思い出すと書く意欲と勇気が湧いてこない。無難なことを書けばいいのかもしれないけど、それなら別に他人に見せる必要もないわけだし、第一、無難って何かね。人様に何かを提示・披露することは、そもそもノーリスクではなかったのか。というここまでの文章は割と無難な気がする。
SNSというのを教えてもらったのは大学生のときで、当時はmixiとGREEに参加していた。色んな知り合いが色んなことを書いていて、自分自身くだらない内容をネタ的に書くのは面白かったけど、唐突に止めてしまった。理由は何だったか。今思うと、発作のようなものだったかもしれない。
Facebookも参加するつもりはなかったのだけど、使いたいアプリがFacebookでしか使えなかったので、仕方なく始めてみた。友達にも知らせずにひっそりやろうかと当初は考えていたのだけど、一人ではいられないという人間の根源的欲求により、気付いたら友達としてつながっている人数は2桁になっていた。知っている人に手当たり次第友達の申請をしている人々もいるんだろうけど、面倒が増えそうなので私は積極的には申請していない。
面倒が増えそうと言っても、揉め事が持ち込まれるとかトラブルになるとかいった意味ではなく、私が勝手に精神的な負担を感じてしまうというだけの話である。話題や展開によってはげんなりしてしまうことがあるのだ。
直接対面してやりとりする分には気にならないことが多い。 それは、リアルタイムの会話では細かいところまで配慮しきれないし、話すまで無自覚だったものが言葉にしたら結構まずかった、というのはままあることだと思っているからだろう。だが、ある程度まとまった意見をネットに書き込むという場合には、考える余裕があるし、発信するかどうかを選択する自由もある。そのような条件下で書かれた文章が、リアルタイムの会話と何ら変わらないと、何故これをネット上で書く必要があったのかと思ってしまうのである。
例えば、「公務員の給料は国民の税金から払われているのだから、無駄にするな」「教師という聖職者なのに、破廉恥な…」というような、『…は〜するべき』を前提とする意見がある。私はこういう意見の出し方に違和感を覚える。この話は裏返すと、(多くの場合)自分はそうではないので義務を負わないと言っているのに等しい。「自分はサラリーマンで給料は国民の税金ではないから、怠けていてもよい。強制わいせつ罪で捕まっても仕方ない」のかしら?
一人の人間としてどうなのかという問題でしかないのに、声高にこのような言い回しをする人は、自分に自信がなく、世間に対して後ろめたい気持ちがどこかにあるのだろう。誰かが自分より劣っていることをアピールすることでしか、自分の存在意義を確認できないのだと思ってしまう。
彼らはまた、他人の過失や責任を問う割には、自分自身の非は認めないことが多い。どうするのかと言えば、他人や社会にそれを転嫁するのである。 自らが小器であることを白日のもとに晒して何が嬉しいのかわからないが、本人達は無自覚なのであろう。
仮に無神経でも無自覚でも、言わなければわからないのだが、気軽に言葉を発信できてしまうというのは恐い。そうか、最近それが恐かったのかもしれない。
SNSというのを教えてもらったのは大学生のときで、当時はmixiとGREEに参加していた。色んな知り合いが色んなことを書いていて、自分自身くだらない内容をネタ的に書くのは面白かったけど、唐突に止めてしまった。理由は何だったか。今思うと、発作のようなものだったかもしれない。
Facebookも参加するつもりはなかったのだけど、使いたいアプリがFacebookでしか使えなかったので、仕方なく始めてみた。友達にも知らせずにひっそりやろうかと当初は考えていたのだけど、一人ではいられないという人間の根源的欲求により、気付いたら友達としてつながっている人数は2桁になっていた。知っている人に手当たり次第友達の申請をしている人々もいるんだろうけど、面倒が増えそうなので私は積極的には申請していない。
面倒が増えそうと言っても、揉め事が持ち込まれるとかトラブルになるとかいった意味ではなく、私が勝手に精神的な負担を感じてしまうというだけの話である。話題や展開によってはげんなりしてしまうことがあるのだ。
直接対面してやりとりする分には気にならないことが多い。 それは、リアルタイムの会話では細かいところまで配慮しきれないし、話すまで無自覚だったものが言葉にしたら結構まずかった、というのはままあることだと思っているからだろう。だが、ある程度まとまった意見をネットに書き込むという場合には、考える余裕があるし、発信するかどうかを選択する自由もある。そのような条件下で書かれた文章が、リアルタイムの会話と何ら変わらないと、何故これをネット上で書く必要があったのかと思ってしまうのである。
例えば、「公務員の給料は国民の税金から払われているのだから、無駄にするな」「教師という聖職者なのに、破廉恥な…」というような、『…は〜するべき』を前提とする意見がある。私はこういう意見の出し方に違和感を覚える。この話は裏返すと、(多くの場合)自分はそうではないので義務を負わないと言っているのに等しい。「自分はサラリーマンで給料は国民の税金ではないから、怠けていてもよい。強制わいせつ罪で捕まっても仕方ない」のかしら?
一人の人間としてどうなのかという問題でしかないのに、声高にこのような言い回しをする人は、自分に自信がなく、世間に対して後ろめたい気持ちがどこかにあるのだろう。誰かが自分より劣っていることをアピールすることでしか、自分の存在意義を確認できないのだと思ってしまう。
彼らはまた、他人の過失や責任を問う割には、自分自身の非は認めないことが多い。どうするのかと言えば、他人や社会にそれを転嫁するのである。 自らが小器であることを白日のもとに晒して何が嬉しいのかわからないが、本人達は無自覚なのであろう。
仮に無神経でも無自覚でも、言わなければわからないのだが、気軽に言葉を発信できてしまうというのは恐い。そうか、最近それが恐かったのかもしれない。
2012年9月8日土曜日
うっかりSeptember
うっかりしていたら9月だった。
最近、いじめ関連のニュースをよく耳にする。いじめで自殺ということについて、環境を変えれば逃げられたんじゃないか、と思う一方、当人から見える世界の中には逃げ場所がなかったのかなぁ、とも思う。学校に行きたくなければ、家に引きこもるという選択肢だってあるはずだ。いじめる側が放火も厭わない連中だったら、もはやそれは犯罪以外の何物でもないが、引っ越すしかないかもしれない。それとも、逃げるというのは敗北を認めたことになるのだろうか。
周囲を見渡したとき、通り一遍の価値観だけを語り、その価値観にそぐわないものは理解しがたいと目を向けない人しかいなければ、生きにくく感じるだろう。理解できない方が悪いのだと開き直れるほど、図太く生きられればいいのだが。図太い人は長いものに巻かれていたり。世の中はアンバランス。
テレビを見ていたら、小学校でいじめ防止を呼びかけたという内容で、集会の映像が流れていた。こども達が声を合わせて、「いじめを見たら『やめよう』と言おう」というような標語を唱和している風景。不気味だった。この標語で効果があるなら、そもそもいじめという状況が発生しないだろう。もしいじめが発生したら、「それでもみんなで『やめよう』と声を掛け合ったので、いじめはなくなりました」と声高に報告できると考えているのだろうか。
「自分で自分の身は守れ、って言うしかないよ」とakiさんが作業しながらポツリと言ったら、「自分の身は自分で守りましょう」と言っている中年男性がテレビ画面に映っていた。学校側がこんなに率直にものを言うのは珍しいと思い、「自分の身は自分で守れって言ってるよ!」と興奮気味に伝えたら、「もうこれ別のニュースだから」。防災教育の話題だった。9月になってもうっかりしている。
最近、いじめ関連のニュースをよく耳にする。いじめで自殺ということについて、環境を変えれば逃げられたんじゃないか、と思う一方、当人から見える世界の中には逃げ場所がなかったのかなぁ、とも思う。学校に行きたくなければ、家に引きこもるという選択肢だってあるはずだ。いじめる側が放火も厭わない連中だったら、もはやそれは犯罪以外の何物でもないが、引っ越すしかないかもしれない。それとも、逃げるというのは敗北を認めたことになるのだろうか。
周囲を見渡したとき、通り一遍の価値観だけを語り、その価値観にそぐわないものは理解しがたいと目を向けない人しかいなければ、生きにくく感じるだろう。理解できない方が悪いのだと開き直れるほど、図太く生きられればいいのだが。図太い人は長いものに巻かれていたり。世の中はアンバランス。
テレビを見ていたら、小学校でいじめ防止を呼びかけたという内容で、集会の映像が流れていた。こども達が声を合わせて、「いじめを見たら『やめよう』と言おう」というような標語を唱和している風景。不気味だった。この標語で効果があるなら、そもそもいじめという状況が発生しないだろう。もしいじめが発生したら、「それでもみんなで『やめよう』と声を掛け合ったので、いじめはなくなりました」と声高に報告できると考えているのだろうか。
「自分で自分の身は守れ、って言うしかないよ」とakiさんが作業しながらポツリと言ったら、「自分の身は自分で守りましょう」と言っている中年男性がテレビ画面に映っていた。学校側がこんなに率直にものを言うのは珍しいと思い、「自分の身は自分で守れって言ってるよ!」と興奮気味に伝えたら、「もうこれ別のニュースだから」。防災教育の話題だった。9月になってもうっかりしている。
2012年8月12日日曜日
とある家庭の不快害虫
以下、その不快害虫をGとする。
去年の夏は1回も遭遇することのなかったGであったが、今年の夏はGにお世話になることが度々あった。お世話になるというか、見かけたらこちらが一方的に始末しているだけだが。
Gを最初に見たのはいつだっただろう。小学生のとき、乾いた洗濯物を取り込んでいたら、足の甲に黒黒した物体がピトッとくっついて、頭の中が真っ白になった思い出はある。あのヒヤッとした感覚は、それ単体なら気持ちよかった気もするのだが、何せくっついているものの形状が悪すぎた。
Gは基本的には森の生き物で、人間の家屋に出現するのはわずか数種類とのこと。こどもの頃、生き物は外敵に食べられないために毒々しい色をしている、とか、メスを惹きつけるためにオスは派手な出で立ちをしている、とか聞いたように思う。でも、家に出るようなGはどうして人間に気に入ってもらえるような形状にならないんだろう。オオルリアゲハみたいな虫だったら、問答無用で殺される回数も減りそうなものだけど。
Gに対して人間が恐怖を覚えるというのも、よく考えてみれば変な話である。Gが人を恐がっているならわかるが。Gは殺人剤を持って走ってくるわけでも、金属バットを振り回してくるわけでもないのだ。
ちなみに、私が恐怖を覚えるようになったのは、祖母の話を聞いてからである。そこは田舎の方の家だったらしいのだが、台所の至るところにGがいて、食器にもGの糞がついていたらしい。しかし、住人は気にせずご飯やら味噌汁やらよそい、ご馳走になるのを断れるような空気でもなかったので、変な臭いがするのを我慢して食べたとか。真相は不明だが、ともかく祖母はそう捉えたのである。
そのときのトラウマのせいか、祖母はGの侵入を阻止すべく非常に気を遣っていたようだった。それでも時々は現れていたらしく、対策用品について「あれ効くっていうから買ったのに、全然効かへん」とこぼしたりしていた。
Gについては「衛生面で問題があるのだから、絶対に退治しないといけない」という意見が多数のようだが、一方で「単なる虫だし、汚いと言っても洗っていない手と大して変わらない」という話もある。先ほどは見た目を問題にしたが、もしGがカブトムシのようにのそのそ歩く生き物だったら、それほど目の敵にされなかったかもしれない。あの素早さは、見つかってはまずいことを何かやっていたのではなかろうか、と思わせるものがある。少なくとも私にとって。
人間だって排泄するし、美味しいものや安いものに群がったりもするのに、Gが原始的な形で同じことをするのには嫌悪感を持つ、というのは理不尽だろう。同族嫌悪かもしれない…などと御託を並べてはいるが、Gと共存する気はない。この世は弱肉強食であり、我々は日々闘っていかねばならないのだ( ー`дー´)キリッ
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